裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛
どこの言葉にも、前後、左右、上下、内外、遠近、長短、あるいは善悪、美醜、貧富、聖俗、のように相反する事態が対になった言葉がよく使われる。数えればきりがないほどある。それらの言葉は確かによく対の形で表現され、ことさら考えることもなく無意識的によく使うが、その関係にはそれぞれ微妙なところがある。その中に「表裏」という対の言葉があるが、私はこの「表裏」という言葉、あるいはその言葉が指し示す事態に特殊に拘ってきたような気がする。そのきっかけになったのが、先に挙げた良寛の辞世の句である。
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最近、運ー不運とか偶然ー必然とかいう言葉がとても気になるようになった。自分は何によって動かされているのか、自分の意志でやっていることも、実は何かに操られているのではないか、といった古い学生時代からの疑問がまた浮上してきたのである。しかもこれまで生きてきた長い過去を振り返るときに、またその疑問を強く感ずるようになったのである。 Read More →

言葉と物、思考と感性は密接に結びついている。一方が失われば他方もそれに続いて消えていく。切り離せないのだ。例えば、梅雨に降る雨は「しとしと」降る。現今の雨は豪雨に近く、局所的に降る。庭石にしとしとと長く降ることはなくなってきた。それに連れて「しとしとと降る雨」という表現も薄れていく。それに歴史的に長く語られてきた言葉にはそれなりの品格が備わっている。最近言葉がその品格を失い、使うのもためらうような言葉が流布するようになってきている。私たちの意識が社会の動向に翻弄されてしまっているのだ。 Read More →

NHKの放送に以前から「小さな旅」という番組があり、名前を変えながらも今も続いている。30分にも満たない短い番組だが機会があるとよく見ている。最近、TVが実に内容のない娯楽番組、あるいは娯楽にさえならないトークショウのような形式のものばかりで、.興味が持てないものが多く、全く面白くもない。この感想は私だけでなく多くの友人や、近所の方々の感想でもある。TVの時代は終わったという声さえ聞かれるようになってきた。TVを見るのは若い人は少なく、年寄りの見るものに成り下がったようにさえ見える。そんな中で「小さな旅」は昭和58年に始まって以来その雰囲気を今でも伝えようとしているところがあり、好感が持てる番組である。
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私が小学校6年生の時だったと思う。私の記憶はいつも不確かだが、夏休みが終わったころだった。先生が、ある一人の生徒を皆の前で紹介した。女の子だった。先生は、おそらく、私たち生徒に名前を言ったはずだが、その子の名前は全く記憶にない。ただその子が小さな赤ちゃんを背負っていたことは、鮮明に覚えている。いわゆる「お子守さん」だったのである。その子はいつも教室の後ろ、しかも後ろのガラスがはめてある引き戸の前に立っていた。その引き戸を開けると廊下になる。学習机も椅子もあったはずだが、その子はいつも立っていた記憶しかない。座っているところを見たことがないのである。おそらく身体をいつも動かし、子供をあやしていたのだろうと思う。その子が背負っていた子供が泣いたという記憶もない。泣きかけたら教室から廊下に出ていったのだろう。そういう、そのような約束だったのかも知れない。 Read More →

現今、昔からある、いわゆるカメラでなくても、携帯でも、スマホでもいつでも、どこでも誰でも写真が撮れるようになった。デジタル化現象があらゆる部門に浸透し、写真もデジタル化されて気軽に誰でも撮れるようになって、その意味が変化したように思う。それ以上に、それに後になってからでも修正したり合成したりすることが自由にできるようになってしまったことが、問題のように思える。 Read More →

「逝きし世の面影」とは、渡辺京二氏による著作の書名である。最近の名著と言ってもいいと思う。私はこの書物を読んで様々なことを考えさせられたが、特に現今の日本の世相の変化を、またその意味を深く考えさせられた。この書物に啓発されたのだが、実際毎日の生活の中でも「逝きし世」「過ぎ去った過去」は時間とともに薄れていくものではなく、私たちの現在の意識を規定する「現実感」に由来しているのだという逆説を考えなければならないと強く意識させられたのである。最近にない読書経験だった。ここで何が衝撃的だったか、そこから何を考えなければならないかなど、学んだことを記しておこうと思う。 Read More →

昨今、雪が少なくなったと言う。全国では九州は南の国という観念があるが、昔は結構雪が降ったらしい。「このあたりも以前は雪がよけい積もりましたよ」と近所の農家のお年寄りが言っていた。私はここに来て30年ほどになるが、雪が10センチ以上積もったことはない。昨日降ったが積雪という感じはなく、坂道を自動車が朝から走っていた。道路は凍結しなかったのだろう。 Read More →

「忘れる」という行為は不思議な行為である。忘れることを行為であるというのには異論もあるだろうが、ここでは他に言葉が出てこないからそう呼ばせていただく。「事態」といったほうがいいかも知れない。まず忘れるというときは、必ずや気が付くということと関連しているということである。何々を忘れたというときは忘れてはいない、気がついた時なのである。つまり、気がついて初めて忘れたということが意味を持つという奇妙な関係にあるのである。そういう意味では、前に書いた「思い出すこと」と対になっていることは誰でも気がつくことではあろう。ただ、思い出すためには、思い出そうと意識的に努力する必要があるのに対して、忘れるのは自然に忘れてしまっていることが多い、ということは言えそうである。忘れるほうが思い出すより始原的で自然なことなのかもしれない。上のものが下に落ちるほうが、下のものが上に登ってくるより自然だろうからである。 Read More →