今更特別書くこともない話題ではあるが、わたしの一生のテーマではある。
個人的なことで恐縮だが、私は本を読むのは好きだが、読書家ではない。書物はある程度あり、書庫もあり図書室もあるが、書物の収集家ではない。書物の内容も決まっているわけではなく、いわゆる特殊な専門分野があるわけでもない。これはどうしても読まなければならないとか、これだけは読んでおくべきだと言った特別な書物があるわけではない。もちろん、今話題になっている事に関する本、今までに読んで面白かった著者の新刊などをまず読むことはあるが、読む本にそれほどのこだわりがあるわけではない。言ってみれば行き当たりばったりに読んでいるだけである。それでも、こんなに面白い本あるのだと嬉しくなる書物に出会うこともある。いずれにしても中途半端、世間で言う物にならない生活を送ってきたのだから仕方がない。今更それを変えることはできそうにもないが、変えようとも思わない。変えようと思っても変わらないし、あるきっかけによって、瞬時に変化してしまうこともある。 Read More →

最近新聞に様々な旅行の案内が掲載される。「一人でも参加できます」などという文句が目につく。近所の知人が、昨秋チベットに行ってきた、この夏は北欧のノルウェイに行く予定だとおっしゃっていた。一人でもそういった旅行ツアーに参加しているのだと言う。確かにその広告を読むと、言語が出来なくても案内人が付き添っており、ホテルも決まっているし、その土地で見るべき場所や建造物の見学は要領よく回ってくれるという。一人旅より安全で、低価格で旅行できることは確かである。一度も足を踏み入れたことのない地域、例えば南米やアフリカ諸国などに行こうとしたらそういう団体旅行も意味があると思うし、初めての旅行なら特に安全性の面からも勧められるだろう。外国に住んでいた時、私も何度かそういったツアーに参加したこともある。 Read More →

今年は殊の外寒かった。というより天候の不順さが進んでいることを認識させられた、と言ったほうがいいかも知れない。友人は、最近いわゆる四季の感覚がなくなり、夏と冬だけになったように思う、と言っていた。冷暖房装置が完備されつつあるので、家の中ではかなり温度の調整が可能になってきたことも一つの理由かもしれない。「ここは暖かいですね、外は寒いですよ」という挨拶をよく聞くようになった。新聞には、この寒気は地球温暖化の影響である、北極の氷が大量に溶け始めており、偏西風が蛇行し、寒気が南下していることに影響されているというのだ、と書いてあった。寒いのが温暖化の現象というのは一見矛盾しているようだが、説明を聞くと納得出来る。そう言えば、シベリア地方の凍土が解け始めており、地表が顔を出し始めているところがあり、以前は凍土の中に埋もれていた動物の化石が掘り出され易くなってきた、という記事を読んだことがある。同じ温暖化の結果だろう。 Read More →

これから書くことは、個人的な問題で書くに値しないことだろうと思いますが、今になって直接感じさせられるようになり、私にとって重要な課題になって来たことを書かせていただきたいのです。話の中心は、昔から言われてきたように「世間様に顔向けが出来ない」ということの意味の理解と、「自分がいかに無能力であったか」という事実の自覚が遅すぎたことへの悔悟です。それならあと少しの人生をどう生きたらいいのか、という最期の難題に取り憑かれての困惑がそれに続いてやって来ているので、さあ、これからどうしたいいのか。そんなことを過去から引き続いてきた事実とこれからの生き様を考えたら「すみませんでした」と世間とそこで関係した人に、事あるごとに言い続けるより他に私には残されていないように思えてきたのです。太宰治は「生まれてきてすみません」と書いて自殺しました。自殺さえ出来ずに、その勇気さえなく、傲慢にずるずると生きて来てしまった私にできることは何か、まだ何かが残されているのか、誰か助けてくれる人がまだいるのだろうか、そんなことを、恥の上塗りの覚悟で書いてみたいのです。 Read More →

このところ寒波がやってきて、大雪をもたらした、という記事や映像が新聞やテレビに載った。東京に久し振りに20センチあまりの積雪があったからだが、日本海側の積雪地帯の人たちは、東京にも雪が降ったのか、20センチ位でなんでそんなに騒ぐのだろう、と感じた人は多くいたであろう。私もそう思った。
ただ、雪にはどこか人を日常生活から隔離させてしまうような、言って見れば非現実的な感覚をもたらすものがあるようだ。川端の小説『雪国』も雪がもたらす、周囲や通常持っている普通の意識さえ無化してしまうような感覚に多くを負っていることは確かだろう。私も子供の頃からの「雪の思い出」は多く、深く心に刻まれている経験も少なくない。雪にはどこか不思議な感覚を喚起する要素があるのだ。 Read More →

冬至を過ぎ今年も残り少なくなった。このところ文章を書くのが遅くなってきたし、纏まりがなく完結しなくなった。
今年の夏休みを過ぎてから、自分の考えがまとまらなくなったのである。歳のせいもあるがそれだけではなさそうだ。ブログの文章も休みがちになった。書くことがないわけではないが、まとまった文章にならないのである。 Read More →

今年は七月から九月半ばまで異常気象に見舞われ、それが社会に影響を及ぼしているような気がして、このところその変化に注意を払ってきた。私の個人的な直感のようなものだが、1990年頃から、大まかに言えば、二十一世紀を境に社会は大きな転換期を迎え始めたように思う。歴史の流れは結果的にしか認識できないが、このところその変化の兆候がはっきりしてきたことは間違いない。特に気象の変化は著しい。それに従うように世相も大きく変化しつつあるように感ぜられる。その変化に気を取られ、このところ自分の居場所について忘れがちになっていた。ブログも長いこと休んでいた。この夏の猛暑のせいもあるが、何か思想経路を遮断されていたようなところがあったのだと思われる。これから自然、特に地球全体に広がるこれまでにない気象現象の到来と歴史における新たな枠組みの再編成の時代を見つめていきたいと思う。ネットによる迅速な情報伝達による、世界の抽象的なグローバル化という自体に逆比例する形で、小さな民族の独立再編成としての退化するナショナリズムとでも言えそうな動きが始まったことは間違いない。そのような時代へと転換していく様子を注意深く見守っていきたい。実はそんな悠長なことを言っている余裕などないのだが、少なくとも現在歴史的な大転換期に突入したことははっきりと自覚しておかなければならない。これから、自然現象においても歴史の動向においても、今何が起きても不思議ではないほど逼迫した状況にあることを肝に銘じておきたい。 Read More →

梅雨明けと同時に蝉が鳴き出した。普通最初に鳴き出すのはニイニイゼミだが、今年は複数の種類の蝉が一斉に鳴き出したような気がした。蝉もこの暑さと湿気に戸惑ったのかもしれない。やはりこのところ自然は明らかに変化してきている。とくに雨の降り方の変化が大きい。局地的に大雨が長く続くところと、雨量が少なく干ばつになる地域との格差が大きくなってきている。それは日本だけでなく、地中海周辺でも似たような減少が起きているという。乾燥したコルシカ島で大きな山火事があり、ローマやヴァチカンでは泉が枯れ初め、水の制限が始まったという。ヴァチカンでは、ここで泉の水を止めざるをえないのは有史始まって以来のことだという。ここ九州北部地方でもそうだが、水害と干ばつが同時に起こっている。やはりこれはどこかおかしい。
それ以上に人間の方も急激に変化させられているようだ。先日東京の文京区小石川に住んでいる小学五年生と三年生の女の子が家に遊びに来た。私はなるべく外に出るようにさせたが、外の気温が高いこともあって、あまり外に出ず涼しい家の中で漫画本ばかり読んでいる。夕方になった時、一斉に庭の蝉が鳴き出した。すると、上の子が「せみがうるさい」と言って耳に手で蓋をしながらまだ本を読んでいた。
子どもが「蝉がうるさい」といったのを聞いて、以前外国人がコオロギの声がうるさいと言った、という記事を新聞で読んだことを思いだした。われわれは夕方から夜にかけて、コオロギの声が縁の下の方から聞こえてくると、なんとなく秋が深まていく情緒を感じたものだが、外国人には騒音にしか聞こえないらしい、というコメントが付いていた。そういうことだったのか、と子どもの蝉に対する反応を聞きながらそう思った。子どもには、外で鳴く蝉の声が実際にうるさかったのだろうと驚かざるを得なかった。そのとき驚きと同時に、さもありなん、といやに納得させられた。
人間の五感は、聞く人間のそれまでの生活環境によって変り、それによって形成されるのである。その子どもにとって、外から聞こえてくる道路工事の音も庭の樹で鳴く蝉の声も同じように「うるさく」聞こえたのだ。外国人だからではない。生活習慣の違いからなのだ。
現在、人間が感ずる五感は外からの物理的な刺激だけでなく、それがすぐ情報に転嫁されて届くようになってきているのだ。大袈裟に言えば、外界の形や色、声や音の質もスマホを通して感ぜられるものになってしまっているのである。スマホで聞こうとしない蝉の声は、それが外から直に聞こえてきたら、聞きたくない雑音になってしまうのである。自分に都合の良い情報だけを選択して受け取るようになってきているのだ。その子達はそうではなかったが、都会のマンションの12階に住んで自分の勉強部屋でスマホの情報を主な感覚と知識に限定される子どもたちは、その生活空間によって自然から遮断されることは間違いない。道路工事の音も、蝉の声も情報化されると同じ雑音として聞こえてしまうのである。
自然を情報化し、存在がすべて意識化されてしまう時代が近いことを知らされた、子どもたちとの体験だった。

先日「雨が降らない、なぜ?」を書いたばかりだったのに、このところ福岡朝倉市、大分日田市、愛知県犬山市周辺で局地的(局所的)豪雨が長く降り続いた。豪雨は以前もあったが,その降り方が特殊だったらしい。普通の域を超えていたらしい。しかも、これまで一度も起こらなかった山崩れが(がけ崩れではない)起こった。砂混じりの土砂が樹木を同時に押し流し、その大木が川をせき止め湖のように広く水嵩が増し、山間集落を孤立させたところさえ出てきた。
今回の豪雨の特色は、雨雲が高いところまで居座っていて、一旦止んだ雨が、下がってきた雨雲が同じ場所に何度も降り続けるということだったらしい。専門家でないから詳細は分からないが、狭い土地に局地的に長く降り、その量が記録的な量になったことらしい。これは新しい現象だという。 Read More →