言葉とは不思議なものだと、最近強く思う。
子供も大人も、先ず言葉を覚える、ないしは言葉を聞く。その言葉の意味するところが分からないまま、言葉のほうが最初に来る。そのあと時間が立って、覚えた言葉の意味ないし物が何であったかを、事後的に知るのである。逆ではない。意味や物を知ってから言葉を覚えるのではないということだ。ただ、言葉を覚えてから意味ないし物に行き当たるまでの時間が様々なだけである。 Read More →

立春を過ぎたというのに、ここ福岡柏原の地にも雪が積もった。普通なら日記に「昨夜雪が降った」とぐらい書くところだが、今は日記をつけていない。「三日坊主」と言う諺が一番当てはまるのは日記を毎日書くことだと、どこかの文芸雑誌の記事で読んだことがある。私もその例に洩れない。高校大学のころ、また中年になってからも書いていたが、何故かやめてしまい、今は時間があるのに書いていない。怠惰なのである。私の母は九十四歳まで日記をつけていた。あまり長い文章ではないが、家計簿のうえの欄にその日の出来事、家庭裁判所に出かける、とか、誰それが来客、あるいは友人に私信を書くなどと言うようなことが簡単に書いてある。時には葬式に参列した時の様子や思いを綴ってあることもある。母の日記をみると明治生まれの婦人の心意気のようなものさえ感ずる。若い頃は私情を伴った文学的な文章も書いていたようだし、兄、妹、私が大学生の頃には「息子に送金」などと小さな字で書いてあることもあった。父がなくなった後の晩年は「茶室の前の草むしり、のうぜんかずらの花がたくさん咲いている」などのような日常茶飯事や「となりの親戚から秋茄子をいただく」など、身辺に起こったことをこまめに書くようになったようだ。ただ、このような文章を短く書く時、母はどのような心境だったのだろうかと、思うことがある。夜寝る前に書いていたようだが、冬など書きながら炬燵で眠ってしまうことがある、と生前言っていた。日記には様々な体裁のものがあるのだと思う Read More →