一年は十二ケ月だが、月の代わり目に大きな意味があるのは一月と四月だろう。日本の暦に馴染んできた人々にはそう感ぜられる。以前は3月25日卒業式、4月1日入学式というのが普通であった。最近はそれぞれの事情で、少しずつ変わってきている。そもそも「季節」という概念は自然の変化と人間の営む行事と一体になっているものである。それは日本だけでなく、外国での それぞれの地域での異なった自然の気候と当の社会の営みが連結しているところはどこでも同じである。ただ、日本人はその移り変わる季節の推移に特別な関心を示してきた。だだ最近地球温暖化とかの影響で季節の移り変わりに変化が現れてきたているようだ。これからどのように変化していくか、見守っていかなければならない。しかし、これまでは誰しもが少なくとも季節に順応して生きて来たのに対して、季節に逆らってまで生き延びようとする傾向が現今強くなってきたことは疑いない。それがいいことなのか、あるいは人間存在の宿命のようなものか、私には判断がつきかねている。そんな時思い出させるのは夭折した人たちのことである。短い時間ではあっても、夭折した人たちは生きた時代を自覚的に反省する暇もなく感覚的に体験し、それ故にその時代がもたらしているものを、若き感性でうまく作品に結晶させているからである。幸運というより外にない。不幸が不幸であることによってのみ生ずる「幸い」もあるのだ。長く生きたらそうは行かない。時代の変化を比較し価値判断を強いられ、結局何も出来ずに時間が過ぎて行き、自己嫌悪にさえ陥ることがあるからである。
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