新緑が美しい季節だ。周りの樹木や花を見、山や空を眺めながら私たちは何を感じ、何を授受しているのだろうか。
私たちは普通、触覚、臭覚、味覚、聴覚、視覚の五つを俗に五感と呼んでいる。それは人間が外界と接する身体器官と関係づけて名付けられたものであり、肌、鼻、舌、耳、眼の五つの身体器官にその役割が与えられているというのである。この分類は、古典ギリシア後期のアリストテレスの考え方に従ったものと言われているが、今ではそれが全世界に普及してしまった。私は知識がないので分からないが、エジプトやインド、古代中国などではどんな分類、あるいは考え方をしていたのであるか気になるところである。それ以上に関心があるのは、日本の古代からの習慣や考えでは、いわゆる五感についてどのような事が言われてきたのだろうか、ということである。ただそういった知識を知るにはどうしたら良いかが分からないのである。どういう書物を読んだらいいのであろうか、よくわからない。 Read More →

山に登るとよく言う。それほど真剣に調べたことはないが「山登り」という言い方は、そんなに古い言い方ではないと思う。そもそも、何かの用事がなければ山の中まで行くことはなかったようだ。植林などという考えも古代のものとは思えない。住居事情が変化して来たこともあってか、必要があれば樹木を伐採して建築物に使用したことはあっただろうが、それほど頻繁に行われていたとは考えにくい。炭焼の技法は古くからあったようだが、産業にまでは発展しなかった。山に楽しむために登るなどという発想さえなかったのである。ましてやレジャーとしての山登りは近代の産物であることは間違いない。冬に山で仕事をしていて雪崩に遭遇することはあったかもしれないが、希だったと思う。昔の人は山は怖いものという意識があったからだ。最近登山家と自他する人達が雪崩に巻き込まれ、警察に救助を要請したりしている。その危険を感ぜずに登山をするなどというのは山を甘く見ている証拠で、許せない感じがする。そこまでいくと、雪崩による死亡事故は自然災害によるものではなく、人身事故としか言いようがない。山登りの遭難が近・源代人のおごりであることは言を待たない。山は生活に必要不可欠のものだけを産出するためのものであって、遊びがてらに使用するものではない。それにはそれなりの覚悟を持つべきだろう。山は人事を超えたところがあり、恐れおののく対象であった。その歴史的事実を忘れてはならないだろう。 Read More →

子どもたちが遊ばなくなった。遊べなくなってしまったのだ。子どもが遊ぶ施設は以前より充実し、危険性にも考慮がなされている。にも関わらず、子どもたちの遊ぶ姿が減っていく。社会が子どもたちから「遊ぶ」という機能を奪っているからではなかろうか。おそらく本当の「遊び場」がないのだ。
いや「遊び場」が機能していないのだ、というよりそもそも子どもたちが遊ばなくなったのだ。
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