「峠を越える」という表現は、危機的状況が去リ元の状態に戻るような時に使われることがある。例えば「熱が下がったし、風邪もやっと峠を越えたようだ」というような表現は、病気の危機的状態が緩和され、以前より病状がよくなってきたという安堵感を感じさせる。峠を越えたという安堵感は、実際に峠を越えた時に実感させられる感覚でもある。また逆に「峠を越えられなかった」という時には、身体的・精神的な頼りなさを感じさせられる。そこを越えなければならない度合いによって諦めの付く場合もあるが、どうしても越えなければといような時には敗北感がつきまとうことさえあり、大きな心的打撃を受けることがある。「峠」はある目的を達成しようとするとき、行き手を阻み、あるいは拒むものの比喩にもなっている。
Read More →

最近手紙を書かなくなった。手書きで書くことは殆どなくなってしまった。手書きの手紙が来ることも少なくなった。書式による通信はほとんどメールなるものになってしまったのだ。お年寄りでコンピューターを使っていない方には今でも手で書くこともあるが、封書ではない、つまり手紙ではなく、事の内容だけを書く走り書きなようなものになってしまった。字が下手なことも手伝って、今は手紙を手書きの文字で書くことは全く希になっている。それは私だけでないらしい。現今郵便受けに投函される郵便物は、公的なお知らせや請求書、あるいは商品の宣伝ばかりになってしまった。にもかかわらず、時に手書きの手紙やハガキが入っていると嬉しくありがたいと感ずるのはなぜだろうか。
Read More →

峠、辻、畑などの漢字が、いわゆる中国からきたものではなく日本で作られた国字であることは多くの人が知っている。私はその方面の知識がないのでちょっと調べてみると、魚、動物、植物などの名前に国字の多いことは予測出来たが、杣、杜、雫、梺、躾などなんとなく国字らしきものから、腺、塀、枠、株、込める、匂う、など普段使っている字にも国字がかなりあることが分かった。それに私が考えていた以上に国字の数が多いことが驚きだった。知識がないことは悲しいことだ。だが、峠、辻、畑に関して言えば、発せられる音も書かれた字面も、感覚的なものにすぎないのかも知れないが、日本の歴史や風土から出てきた感じがするのは私だけではないはずである。それらの言葉は、やはり国字というより和字といったほうがその場所的風土的感覚は伝わるような気がする。 Read More →