峠、辻、畑などの漢字が、いわゆる中国からきたものではなく日本で作られた国字であることは多くの人が知っている。私はその方面の知識がないのでちょっと調べてみると、魚、動物、植物などの名前に国字の多いことは予測出来たが、杣、杜、雫、梺、躾などなんとなく国字らしきものから、腺、塀、枠、株、込める、匂う、など普段使っている字にも国字がかなりあることが分かった。それに私が考えていた以上に国字の数が多いことが驚きだった。知識がないことは悲しいことだ。だが、峠、辻、畑に関して言えば、発せられる音も書かれた字面も、感覚的なものにすぎないのかも知れないが、日本の歴史や風土から出てきた感じがするのは私だけではないはずである。それらの言葉は、やはり国字というより和字といったほうがその場所的風土的感覚は伝わるような気がする。
「峠」という字が国字であることは、中学の時の国語の先生から習ったことは憶えている。おそらく国字なるものがあることもその時知ったような気がする。ただ、その時の国語の先生は、国語や国文学の専門の先生ではなく、職業は画家であり代用教員のようなことをなさっていた先生であった。その時すでにかなりのお歳のかたで小柄な「お爺さん」といった風貌であったが、戦前と戦後の国語教育の違いを自覚しておられたのだろうと思う。それに先生が描かれた大きなキャンバスの油絵は私達生徒を感激させた。その絵が有名な展覧会で優秀賞を取った作品であったことも驚きだった。あの国語の先生がという思いが強かったのである。良い悪いではない、忘れられない先生になったのである。
それ以来私は「峠」という字にこだわるようになった。日本には全国どこにでも峠はある。私の郷里甲斐の国(山梨県)で、先年トンネルの天井が落下した大事故のあったのは中央道の笹子トンネルだった。国鉄中央本線に笹子トンネルが出来る以前は甲州街道にある笹子峠は徒歩で越えていたのである。高速道路である中央道が出来たのはいつ頃の事だったろうか。今笹子峠の下にはJR中央線と高速道路中央道の二つの長いトンネルが平行して走っていることになる。
笹子追分から旧甲州街道を自転車で超えた学生の話だとかなりの急勾配の道がくねくねと長く続き初鹿野(はじかの、現在の甲斐大和)までは大変だったと言っていた。高速道路である中央道ができてから笹子峠を越えることは殆どなくなった。全国の多くの峠は名前だけが残り実質トンネルあるいはバイパスで通過するようになった。少々遠回りでも峠を超えることは少なくなったのである。峠は忘れ去られていく運命にあるのだろうか。甲州街道(国道20号線)の裏街道が青梅街道(国道411号線)である。青梅から塩山まで、大菩薩峠を始め大小多くの峠がある。大菩薩峠は中里介山の長編小説『大菩薩峠』で有名になったが、江戸時代でもこの峠を越えるのは大変だったそうである。大菩薩峠の下は今でもトンネルはないが「大菩薩ライン」という高速道路が出来ている。いずれにしても峠越えは以前より大幅に少なくなったのである。道路や線路が方方にできてくると、昔からの峠は忘れられていくのだろうか。現今、しばしばニュースになって報道されるリニア新幹線は、東京の品川駅を始発駅として神奈川と山梨の間の相模川や中津川を渡り、丹沢山系を突き抜けて、甲府盆地の東南をほぼ直線で走り、南アルプスの下にほとんど窓から何も見えない長いトンネルを掘り、長野伊那地方を抜けて愛知名古屋までの路線が計画され、すでに人を載せた試運転が開始されている。完成が何時になるかわからないし幻の計画にもなりかねないが、いずれにしてもそのころには峠などという言葉は死語になり、峠越え、峠の茶屋などの表現も、古い文学の中に残るだけになっているかも知れない。峠は実生活から離れ忘れ去られていく。何か悲しい思いがして仕方がない。
私の今住んでいる福岡も同じようなことが言えるが、福岡と飯塚の間はまだ峠の面影を残している感じがするところがある。福岡関係だけでも名前のついた峠が80以上あるという。実質私が通ったことのある峠は佐賀県との県境にある三瀬峠、椎葉峠、福岡市西区から糸島に下る日向峠、飯塚方面に行く冷水峠、米ノ山峠、八木山峠、犬鳴峠、などだけであり、峠越えをしたという意識はなく通過してしまったものも多いと思う。しかし、福岡から飯塚に行く道はたくさんあるが、どの路を通っても未だに峠越えの趣きが残っている珍しい地域である。
峠は昔からその近くに住んでいる人には馴染みのある場所でもある。峠はそれぞれの名前からして、曰く因縁がありそうなところが多い。小説などに描かれた峠も少なくない。先日、一年ぶりで飯塚に行った。行きは冷水峠ではなく筑紫野−筑穂線を(国道65号線)を走り昔からある米ノ山峠を越え、穂波川の土手を遠賀川と合流する東橋から飯塚の中心に出て、帰りは八木山峠を越えるバイパスで篠栗を通って帰って来た。飯塚は福岡の方からは、現今はバイパスやトンネルが出来ているとはいえ、どこかの峠を越えていかなければならず、山に囲まれた盆地にある。石炭産業が急激に落ち込み失業した炭鉱労働者があふれていた筑豊地方に入り込んで撮った、土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』(1960年昭和35年)を見ても、貧しくも独特の哀しみを宿し、働いて生きていく庶民の心意気が漂う街である。具体的な理由は自分にもよく分からないが、飯塚は筑前でその東に位置する田川は豊前で言葉も違い風情も異なり、頻繁に訪れるわけではないのだが、どちらの街もなぜか私は好きである。五木寛之の小説『青春の門』を映画化したおりに作られた「織江の唄」(五木寛之作詞、山崎ハコ作曲)という唄はどちらの街にも関わっており、次のような詩句から始まる、
「遠賀川土手の向こうにボタ山の
三つ並んで見えとらす
信ちゃん、信介しやん
うちはあんたに逢いとうて
カラス峠を越えてきた
そやけん
逢うてくれんね信介しやん
すぐに田川に帰るけん
織江も大人になりました」
と言う歌詞である。
カラス峠とは飯塚から田川に行く途中にある峠だという。カラス峠とは実名「烏尾峠」を土地の人がそう言い慣わしているのである。今はトンネルとバイパスができていると聞いいている。山崎ハコが独特な哀歓を秘めた声と節回しで「カラス峠を越えてきた」と唄うのを聞いていると、炭鉱で栄え、遠賀川を石炭を積んで運んだ船の発着地であり、かっての繁華街を背にして賑わった飯塚の街の風情がなにか淋しい憂いを帯びて響いくる。現在飯塚市本町のアーケードのある繁華街はほとんどシャッター通りになり寂れてしまっているのを見るとなおさらである。三つあったボタ山も一つ消え二つになってしまっているように見える。熊本北部の山鹿市にある八千代座と並んで、古くから市民の娯楽を担ってきた嘉穂劇場は以前大水害にあったが元通りに復旧し今も健在だし、「花子とアン」で有名になった、柳原白蓮が住んだ伊藤伝右衛門邸には今年になって来場者が押しかけるように多くなったと聞くが、飯塚の街は、土門の「筑豊のこどもたち」のころより近代化が進んだだけ、その内実はさらに暗くすさんでいき、すでに廃墟に近い感じがするほどになってしまっている。にもかかわらずそこには「暗さゆえの暖かさ」とでも言えるような街の雰囲気がどこということもなく、しかしはっきりと残っているのは不思議だ。そこには人間のはかなさがもたらす実の暖かさが感ぜられるのである。山﨑ハコの唄は映画化された時、あまりにも暗いという理由で実際には採用されなかったのだが、飯塚の街が抱えてきた得意な気質のようなものをこの唄は伝えんとしているように私には聞こえる。
飯塚は、市の郊外を走る自動車道の両側に商業施設や店舗が並び発展しているように見えるが、逆にかって市の中心だった通りや地域は空洞化してしまう、今現在日本全国の中小都市で起きている都市形態の変化の典型と言えよう。確かに飯塚は古くから小倉から長崎までの長崎街道の重要な宿場でもあったが、今は街道自体が小さく細切れに切断されてしまっており、長崎街道を昔の道に沿ってそのまま歩くと大変らしい。昔の道はとぎれとぎれになってしまっているからだという。伊藤伝右衛門亭の前の狭い通りがもとの長崎街道だったという。飯塚から内野宿を経て、曲がりくねった道の先に冷水峠があり、長崎街道が飯塚から筑紫野に向かって越えていく峠だった。郊外にまで発展し続ける福岡近郊から見れば、飯塚は峠の向こう側にとりのこされてしまう場所なのだろうか、であっても飯塚が背負ってきた歴史が生み与えてきたであろう不条理やそれと同居する素朴な荒々しさのなかで守られている「貧しい暖かさ」はそこからいつまでも消えないような気がする。そのことからすれば同じ規模の都市でも峠を越えて行かねばならない盆地にある飯塚と、耳納山脈が後ろに控えているとはいえ、平らな筑後平野の真ん中に位置する久留米との違いははっきりしてくる。もちろん歴史的な要素の違いも大きいが、同じ川に面した町でも「遠賀川」と「筑後川」との風土的な性格の違いが大きいような気がする。以前から飯塚の生活文化は峠を越えて福岡方面に向かうというよりは、遠賀川を下り北九州方面に流れていたように見える。
峠は昔からいろいろな事件に関わり多彩な逸話を残してきた場所である。村から村、郡から郡を分ける境であり、広い意味で峠はよその国や異なった地域を分ける国境なのである。井手孫六に『歴史紀行 峠をあるく』という書物があるが、それを読むと峠が担ってきた歴史的な役割があったことを再認識させられる。峠はいつもそれを挟んでいる両方の土地の歴史やそこで語られる物語と結びついてきたのだ。塩狩峠、十石峠、野麦峠、乙女峠などが全国的にはよく知られているが、小さな村の山越えの峠にも昔話はつきものだった。旅人は今越えてきた峠を必ずや振り返るだろう。そのように峠なるものは通り越してきた時間、つまり過ぎ去った歴史を振り返る行為を促すのだ。そこに過去と未来を結ぶ思いもよらないような物語が誕生する端緒があるのだ。かの芭蕉にも
雲雀より上にやすらふ峠かな
(出典『阿羅野』、『笈の小文』には「空にやすらふ」とある)
という句がある。いつも頭の上をさえずっているひばりという観念を峠は破っている。芭蕉のその驚きは峠というもののあり様をうまく表現している。峠が物語へとつながる場所を示唆しているとも言える。
太古の昔から峠を越えるのが難しかったのは日本だけではない。すでにローマ人達がその困難に出会っていた。アルプスをいかに越えるかが問題だったのである。

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