かれこれ五十年ほどになるだろうか。そのころ学生だった私は、奥日光の杉林の中を歩いていた。その時、どこからかモーツァルトのイ短調ピアノソナタの第三楽章が聞こえてきた。それがなんとも快く周りの雰囲気にふさわしく響いていた。こんな山の中なのになぜ、という疑問がわいてきたが、やはりはっきりと聞こえていた。不思議だった。今でも鮮明に覚えている経験の一つだ。
今度、画家である大穂さんが「おくのほそ道」を暗誦していて、それを朗誦してくださることを聞いたとき、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の中の曲を、特に穏やかな曲とその曲想をそこに配置したら、新たな連結の可能性が発見できるかも知れない、という思いにかられた。確かにその二つの結合は、恣意的で単なる趣味の域を出ないし、何の必然性もないように見えるが、その結合は、聞く者に新たな驚きと不可思議な感動を与えるはずだという、確信はある。菅谷さんの演奏もその結合にうまく加担してくれている。
普遍的なものは、その普遍性ゆえに必然的に結合し、連結し、さらなる可能性を広げてくれるだろうからである。そもそも「世界生成」の表現は、結合の新たな可能性によるのだ。
五十年前の記憶の残滓が、時間を経て、その構造をここに再生してくれたように思えてならない。