現代社会における「高齢化と少子化」問題が論じられるようになって、すでに久しい。社会の構造的変化は、中小都市においては繁華街の衰退、いわゆるシャッター通りの拡大を、また農漁村には人口の過疎化現象をもたらした。人と物の流れが新幹線の停車する大都市の駅前およびそれに連なる中心部と、国道などの大きな自動車道路の両側に吸い込まれた。その結果旧街道とJR在来線が急激に衰退し、人の流れが一転した。乗客の減少した駅は次々に無人駅となり、廃駅に追い込まれたところも少なくない。バス路線がそれに代わろうとしたが、過疎化した村にはバスも行かなくなった。限界集落の誕生である。村民の高齢化と交通手段の遮断がそれを加速させている。
 しかし、私にはそういった現象が必ずしも悪いとは思えない。経済的にではなく、倫理的にである。廃村や廃駅を見ていると逆接的にそう思えてくる。許せないのは、「原発」で潤う海岸の市町村や「世界遺産」の名のもとに資本主義的観光業に侵されて、あたかも発展しているように見える歴史遺産や自然遺産を抱える市町村の在り方である。限界集落や無人駅は「負の遺産」などでは決してなく、過去と未来を連結する、人間の「想像力と創造力」の原点になりうる、現代におけるもっとも重要な場所なのではないのか。消えてゆくものほど美しく、その滅びゆく姿は本当の生きる力をわれわれに与えてくれるはずである。「滅びるものには力を貸す」(ニーチェ)ことだけが、真の「再生」を可能にする絶対条件なのではないか。希望はまだそこに残されている。限界集落や無人駅はそのアレゴリーと言ってもいいように思える。
技術によってではなく、自然に滅びゆくものの歴史的意味を考えていきたい。