室生犀星の『抒情小曲集』にある
「ふるさとは遠くにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの」
という詩句は「ふるさと」という言葉のもつ二重性をよく表している。思いと現実とがどこかで引き裂かれ、ちぐはぐになっている感じがよく表されている。帰りたいのだが帰れない、あるいは帰ってはならない、帰れば「ふるさと」ではなくなるというアンヴィヴァレンツな感情が「帰るところにあるまじや」と続くリフレインによく出ている。犀星は金沢の出身だが、金沢に帰ることは殆ど無かったという。しかし、逆説的に犀星は、ふるさと金沢に帰りたかったに違いない。この詩を読んでいると、過ぎ去らない苦の記憶を昇華させて今にも帰りたかったように思えてくる。だからこそ「遠くにありて思ふもの」という言葉が出て来たのである。しかし実には帰れなかったのである。多かれ少なかれ、私たちにとって「ふるさと」はいろいろな意味で「二重性」をはらんだ、時には矛盾する存在でもある。啄木が「石をもて追われるごとく」去らねばならなかった渋民村も「帰るところにありまじき」ところではなかったに違いない。後になっても渋谷村にいつも思いを馳せていたことからも、
その二重の感情は伺えるはずである。
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