旅することは楽しい。だが、なぜ楽しいのか、その理由は殊の外難しい。自分で旅をし、また旅の本をいくら読んでもその謎めいた旅することの楽しさの理由や意味はよく分からない。ただ確かなことは「旅とは、ここではないどこかへ移動することだ」ということである。しかしそれは旅ということの定義をしているだけであって、旅する楽しさの根拠ではない。最近感ずるようになったのは、旅する楽しさは淋しさと相関関係にあるということである。そんなことは分かりきっている、誰でも言っていることだ、と言われそうだが、もし旅にある移動が伴うとすれば、その移動は行ったり来たり、楽しかったり淋しかったりする相互関係という移動ということではないかということである。 Read More →

以前、「英語仮名交じり文は可能か」という文章を書いた覚えがあるが、最近新聞や雑誌、テレビなどで話されたり、字幕になったりしている日本語を聞いたり、読んだりしていると、日本語も変わりつつあると日々感じている。
言語学者でもある今野真二氏に『日本語のミッシング・リンク』という著書がある。昨年刊行された書物である。副題が「江戸と明治の連續不連続」となっている。「ミッシング・リンク」という表現自体がそれほど一般に使われる言葉でもないし、その内容は更によくわからない。ここで著者は、連続していることが期待される二つの事柄に関して、それが連続していないように思われる、その「間隙」をミッシング・リンクと言っているのである。今野氏は江戸時代の日本語と明治期の日本語のあいだにその間隙があり、それはある「断層」であり「和語と漢語の融合態」から「漢語を(一方的に)減らしたのが、ある時期からの明治期からの日本語ではないか、というのが本書の主張の一つである」と書いている。もしその考えを現代の日本語の中で受け止めるならば、昭和と平成の間にも「間隙」としての「断層」があるように見えてくる。その断層は、おそらくワープロやコンピューター(PC)のワードなどで文章をよく書くようになったことと深く関係していることは間違いないように思う。その結果、まず文章を書くとき、横書きが多くなり、特別な場合でない限り、手紙さえ横書きになりつつある。メモを縦書で書く人は現今皆無になってしまっている。それに平行して生じてきたのが、英語の、いや日本語化した英語の氾濫である。それが良い悪いと言っているのではない。ただ、それがなんとも言えない煩わしさに感ぜられるのは私だけだろうか。まさに「もとからの日本語を減らし、わけのわからぬまま英語をカタカナにして多用するようになったのである」やはりそこに、今野氏の言う断層が現れている、と言っていいだろう。つまり、われわれの現今の日本語はそのように変化しつつあるということだ。ただ明治期の人々は言語の変化に意識的であったということには注意しておく必要がある。そこが重要なのだから。明治期の「言文一致」運動なども一つの意識的に考えられ意図されたた運動だった。しかし、現今の文章は何の抵抗もなく、無意識的に変化してしまっている、というところが問題のように思える。 Read More →