誰にでも物を収集する癖があるという。程度問題でもあるが、物を集めることは何故か楽しいことらしい。収集癖は人間だけでなく動物にも観察されるという。人間の場合それが過剰になってしまうところが動物と違うところだろう。
最近見ることはほとんどなくなってきたが、「なんでも鑑定団』というテレビ番組が長く続いている。収集に関心のある人が多いからだろう。それに収集したものが本物か、偽物かを専門家の方々が判定してくださるので、自分が鑑定を依頼した収集家が持参したもの対する判定を聞いて取る悲喜こもごもの態度が、家伝として大切にしていたものが全くの偽者だったり、ふと偶然に手に入れて忘れていたものが、重文に近い希少価値があるものだったりして、判定の結果を聞いた収集家の人間模様が垣間見られてこれもこの番組の魅力だろう。しかし、この番組に批判的な人もいる。私の知っている骨董屋さんは、あの番組のお陰で価格が吊り上げられたり、過小評価されたりする影響が出てきて困る、というのだ。骨董そのものには、私はあまり興味が無いが、気に入ったものを自分の手もおとにおきたいという願望はある。 Read More →

以前から気になっていたことだが、外国の国名、都市名、人名の日本語表記をもう少し考える必要を感ずることが最近多い。外国語の表記はどこの国でも悩ましい問題であるらしい。アラビア文字は私には判断がつきかねるが、アルファベットを使用する欧米諸国また漢字文化である中国語と比較しても、外国語表記に関して、日本語は漢字、ひらがな、カタカナの三種類の表記文字、ローマ字を使えば異なった4つの表記ができるので、こんな便利な言語は、世界中どこを探しても日本語以外にはないだろう。にもかかわらず、NHKの放送の字幕に「ベートーベン、交響曲第5番ハ短調『運命』」とあったし「ロミオとジュリエットの舞台になった都市ベローナ」と書いてあった。私はなにか恥ずかしい感じさえした。全てではないが、まだ新聞のほうがましである。フランスの作曲家<Ravel>は「ラヴェル」と記してあったし、イタリアの水の都<Venezia>は「ヴェネチア」と書いてあった。長椅子<bench>は「ベンチ」でいいが、合板<veneer>は「ベニア」ではなく「ヴェニア」の方が正確である。しかし、言葉はすでに流通してしまったら変えようがないところがある。「べニア板」を「ヴェニア板」と言ったら誰も分からないし、「テレビ」を「テレヴィ」と言ったらキザに聞こえる。難かしいのである。それは感覚の問題でもあるからである。 Read More →

一昨日北陸新幹線が開通したということで、金沢駅が新たな賑いを見せている、という新聞記事やテレビのニュースが流れていた。それを見ながら、大学生の頃北陸・山陰に惹かれて旅をしたことを思い出していた。北陸線はまだ単線でで電化もしていなかった。良寛の故郷出雲崎に行き、引き返して糸魚川から北陸本線に乗り換えて富山方面に向かう。途中旧北陸線の親不知から市振の海岸までは、鉄道の路線に海岸からの水しぶきがかかるのではないかと思われるほど海に近いところを走っていた。そこで北陸に来たという感じが強くした思い出がある。小さな駅で汽車が止まり、そこで当時の社会党の江田書記長に会い、少し話をした記憶がある。社会党の全盛時代だったのだがそこで何を話したか覚えていない。夏だったのだろう白い半袖のシャツを着ており庶民的な感じがした一方、政治家としての貫禄がありまた優しい感じもした。現代の政治家には感ぜられないものだった、ように思う。お話しした駅のホームは狭く、この駅も海岸の直ぐ側あり、駅の向こうに日本海が北に向かって広がっていた。この時の日本海の風景が今でも私の北陸の印象として残っており今でも忘れがたい。 Read More →