ドストエフスキーはモスクワ生まれだが、亡くなったのはサンクト・ペテルスブルクである。サンクト・ペテルスブルクはソヴィエト時代はレニングラードと名前を変えられて呼ばれていたが、今は元の名に戻っている。
そこに、ドストエフスキーが最後を過ごした家が今でも残っている。アパート風の大きな建物だが、その一角にドストエフスキーの家があった。その部屋の内部を、ウクライナ出身のユルチクという画家が描いた油絵がここ「日時計の丘」にある。以前北海道の小樽に「ロシア美術館」と呼ばれ、様々なロシアの画家たちの美術作品が展示されていたが、「ロシア美術館」が廃館になり、そこに収められていた作品が外に流れ、それらの作品を扱っている画廊から4~5年前に手に入れここにやって来たたのである。その室内が家具や置物から壁に架かっている絵まで克明に描かれた油絵である。一見すると、これがドストエフスキーが住んでいた部屋なのかと思わせるほど、彼の文学作品や想像される生活とは異なった、庶民風の雰囲気が感ぜられる画面である。しかし、この絵はドストエフスキーの生活の反面を描いている感じがし、高度な芸術性が高い作品とは言えないかもしれないが、当時の住まいの日常性が気張らず普通に描かれているだけだなのに、奇妙な存在感がある作品である。ドストエフスキーが最後に住んでいたペテルブルクの「四階建ての角の建物」は現在は「ドストエフスキー博物館」になってしまっているが、ユルチクの、部屋の内部を描いたこの油絵は、博物館に様変わりする以前ドストエフスキーが実際に住んでいた部屋であったに違いない。確かに、ドストエフスキーの文学作品を読み、その伝記などに触れると、賭博や情欲に溺れたり、社会の矛盾に敏感でそれに激怒し、てんかんにも似た錯乱状態に陥ったりする激しい性格や監獄に入っていた時代やシベリア抑留時代の生活などの世間から特殊に見える生活がよく語られるが、この絵を見ていると、最後には生まれ、父母と過ごした子供時代のような普通の生活に戻って静かに亡くなったのではないかとも思えてくる。少なくともユルチクが描いたドストエフスキーの部屋の油絵からは、そのように感ぜられる。
ロシアは第二次大戦中も書物の検閲が厳しく、日の目をみない芸術作品は数多くある。ドストエフスキーも禁書になったというから、それなら何を読めというのだ、と言いたくなったことだろう。モスクワに住んでいたロシア系ユダヤ人作家レオニード・ツィプキンの『バーデン・バーデンの夏』という作品もその一つだ。その冒頭部分が英訳され、アメリカで週刊誌に掲載されたが、それを見る前にツィプキンは亡くなり、あまり注目もされずに埋もれてしまっていたのを、かの『隠喩としての病い』を書いたスーザン・ゾンタクが偶然ロンドンの古本屋でその英訳を発見し、新訳されゾンタクの序文がつけられて刊行されて以来、大きな反響を呼び、各国語に翻訳されている。もちろん日本語訳もある。ドストエフスキーの第二の妻アンナの日記に魅せられた作者は自分の妻と一緒に、その日記を携えて、ドストエフスキーがアンナと訪れたバーデン・バーデンに旅立つ。ドストエフスキーとアンナのバーデンバーデンでの生活と並行するような形でこの作品は書かれているが、作者のドストエフスキーへの思いが強く滲んでおり、ドストエフスキーの性格や行動様式が、作者の旅する意識と二重になって、描かれている。作者のドストエフスキーへの並々ならぬ愛着が伝わってくる。
小林秀雄にも「ドストエフスキイの生活」という著名な作品がある。小林が雜誌『文学界』の編集責任者になった昭和10年からその雜誌に長く連載されたものを、加筆・改稿し昭和14年に単行本として出版された、小林としては初めての伝記的長編評論である。小林はこの作品の最後の章で、ドストエフスキーの「死」について「晩年の彼の生活は見たところ平静なものであったが、彼の精神の嵐は荒れていた」と書き、最後にパウロの言葉でむすばれている。『作家の日記』に描かれているように、ドストエフスキーが真理の追求には終わりのないこと、自分の最後の言葉が発見できないこと、それに「苦悩による自己浄罪」などのドストエフスキーの魂の双肩や逆説に小林は目を向けているのだが、そこにもある種の生活の平静さのようなものがあったことが感ぜられるのが私の救いである。事実ではないかもしれないが、そうあってほしいのである。『罪と罰』や『悪霊』、 『カラマーゾフの兄弟』に描かれた世界の壮絶な人間模様に魅せられ、震撼させられた私たちは、ドストエフスキーとは異なった意味で「最後の言葉」を探せずにいる。おそらくドストエフスキーは、「最後の言葉」が「最期の言葉」になることをよくわきまえており、意図的に最後の言葉を探さなかったのかも知れない。あるいは、最後の言葉は以前からすでに分かっていて、ただ、ことさらここで言うことが憚られていたのではないかとも考えられる。私の最後の言葉を知りたければ、私が書いた小説を読んでくれ、とも聞こえる。いずれにしても、最後の言葉を言わずに保留したドストエフスキーは自分の存在と心情に、小説に書いた以上に忠実に生きていたのではないか、と思われてくる。
ユルチクが描いた家はいつ何処で描かれたのか、ペテルブルクの最後の家の部屋なのか、それを確かめるために、ペテルブルクに行って、今は博物館になっているというが、その建物と部屋を見れば、何かが感じられ伝わってくるに違いない。ドストエフスキーの最後の棲家を訪れてみたい。底知れぬ世間という闇の中を歩き続けたドストエフスキーが最後に住んだ家を。

One Thought on “ドストエフスキー最期の家

  1. 宗像 眞次郎 on 2016年8月30日 at 1:41 AM said:

    ドストエフスキーは、二人目の奥様アンナがとてもよくできた女性だったことも、晩年平穏な生活を過ごせた一因かも知れませんね。
    それと、もうひとつ、ドストエフスキーの神との向き合い方は、ドグマ的なものとは対極の、かなり直感的なものだと思います。
    ニヒリズムを突き詰めたようなイワン・カラマーゾフのような人物を創造するひとだから、その精神の内面は想像もできませんが、わたしは、イワンは自分の思想を持ちこたえられなくて精神が崩壊したような印象を持っています。神に異議を唱えるヨブ記のサタンのように神の創造した世界の秩序を否定したことの必然的な結果としての自己崩壊というべきかな、と。
    ニヒリズムを突き詰めながら、そのこと自体の矛盾を感得してそこから神の臨在を肯定的なものとして感じていた、それも平穏な生活と関係していたのではないかな・・・あくまで想像ですが。

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