「忘れる」という行為は不思議な行為である。忘れることを行為であるというのには異論もあるだろうが、ここでは他に言葉が出てこないからそう呼ばせていただく。「事態」といったほうがいいかも知れない。まず忘れるというときは、必ずや気が付くということと関連しているということである。何々を忘れたというときは忘れてはいない、気がついた時なのである。つまり、気がついて初めて忘れたということが意味を持つという奇妙な関係にあるのである。そういう意味では、前に書いた「思い出すこと」と対になっていることは誰でも気がつくことではあろう。ただ、思い出すためには、思い出そうと意識的に努力する必要があるのに対して、忘れるのは自然に忘れてしまっていることが多い、ということは言えそうである。忘れるほうが思い出すより始原的で自然なことなのかもしれない。上のものが下に落ちるほうが、下のものが上に登ってくるより自然だろうからである。
以前から感じていたことであるが、駅や催し場などで「忘れもののないようにお気お付けてお帰りください」というような言葉が流されることがある。この時、このアナウンスを意識して聞いている人は忘れ物をしていない人である。このアナウンスを聞いていても、実際忘れ物をしている人は忘れものをしたということに気がついていないのである。ここで私は「忘れ物のないように」というアナウンスが無意味だと言っているわけでなない。そのアナウンスを聞いて忘れたことに気がつくということは大いに有り得ることだからである。ただそういったアナウンスを聞いて、私がいつも妙に感ずるのは「忘れ物」という言葉自体のもつ矛盾である。忘れたということに気がついている人にとって「忘れ物」という言葉は、何も忘れてはいないのだから意味を持たないし、忘れている人にとっては「忘れ物」という言葉は、そのアナウンスをただ音声として聞いた時は意味を持たず、それから時間が立って忘れたということに意識的に気がついた時「忘れ物」という言葉が意味を持ってくるのだからである。屁理屈を言っているように聞こえるかもしれないが「忘れる」という事の本質がそこによく表れていると思う。「忘れている」と気がついた時は「忘れていない」のである。
「忘れる」とは「忘れている」ということを「忘れていること」なのである。そういう意味では動物は「忘れること」はないと思う。動物にはおそらくこの二重構造は意識されないに違いないからである。
「忘れる」という行為が人間的なものである理由は、言葉と物が分離していることである。その人の顔は思い出せるが名前が出てこない、ということがよくある。また逆に、名前は出てくるのに、その人の顔は思い出せないということもある。更に、今ここで出会って話しをしているのに、その人の名前が出てこないということさえある。「認知心理学」という学問分野があり、記憶や忘却のメカニズムを科学的に解明しようとする学問である。
認知症なる病気と脳の働きとの関係を明らかにしたりする、現在非常にアクチュアルな学問である。認知症の解明が進み、その予防策などが分かってきて、それが忘れてしまうことの防御になってくれれば有難いと思うが、私がここで考えたいのは「忘れる」ということの脳の内部での生物学的メカニズムではなく、その意味である。ある病院で「最近忘れがひどくて困ります。認知症になってしまうのでしょうか」と言った所、医者は私に「わたしは認知症です」という患者は認知症ではありませんと言ってくれました。その時私は、この医者はその命題を多くの患者との接触から、経験的にその事情を観察したのに違いないだろうし、実際そうなのだろうと思う。しかし、私の問題であるそもそも「忘れる」ということの意味は明かしてくれなかった。それはその医者の責任ではない。事の難しさ自身から来るように思われるからである。ただその時おそらく認知症患者は「わたしは認知症です」とは言わないだろうなとは思った。
戦後すぐ1952年頃にラジオ放送で菊田一夫の『君の名は』という番組が流行っていた。私はその放送劇の内容を理解するには稚すぎたからであろう、あまり聞いた記憶はない。母や、姉たちは聞いていたかもしれない。その後何度も映画化されたりしたので、内容も少しは分かるようになり、「真知子巻き」というマフラーの巻き方が流行ったり、その番組が流れる時間帯は銭湯の「女湯」が空になったとか言うことを聞いたことがある。それと同時にナレーションで語られる「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」というセリフも憶えた。しかし、私にはそのセリフの意味がよくわからなかった。誰か大人の人に聞いた覚えもない。それからも分からぬままであった。その後「忘れようとしても忘れられないことは悲しいことだ」というような意味だろうと勝手に思い込むようになった。「忘れられないのに忘れようとすることは悲しいことだ」の方がセリフの意味に近いと感ずるようになったのは「忘れる」ということが何か不可思議なものを含んでいる、と考えるようになってからである。いずれにしても、「忘れる」ということは、一筋縄ではいかない交差した領域での出来事であることだけは確かなようである。忘れたくないのに忘れてしまうこともあれば、忘れてしまいたいのに忘れさせてくれない場合もある。どちらも自分の意志通りは行かない、と言うよりは、結果は意志に関係なく起こってしまうのである。つまり偶然にそうなってしまうのであり、その結果にはに逆らえないのである。
英語やドイツ語を習うようになって、忘れるということに関して日本語でと同じ文脈での難しさがあることが分かってきた。そこで考えられることは、忘れるということは言葉を忘れることと深くつながっているということである。それは誰にでも経験的に明らかなことでもある。まず、忘れるとは名前を忘れることから始まるのだからである。しかし、忘れるのは言葉だけではない、忘れる内容にも関わっている。青い可憐な野草である「忘れな草」はドイツ語で<Vergissmeinnicht>と長い名前が付いていて、ラテン語の学名より古く、15世紀に遡ると言う。英語でも同じく<forgetmenot>となっており、フランス語でも<m’oubliez pas>であるから、語源は同一であることは間違いないが、おそらくその語源には、何かしらの物語が付随していたことは考えられる。野草の名前としてはいかにも長過ぎる感じがするし、名前の中に物語の一部が既に入っている。出来事がそのまま言葉になり、忘れる行為の内容にもなっている例である。そこから「親の恩を忘れるな」というような言い方も出てくることに気づくのである。ここでも「忘れる」ということの難しさに出合うことになる。
今は歌う機会が少なくなったそうだが、明治以来卒業式などで「仰げば尊しわが師の恩、教えの庭にも はや幾年」と歌った『仰げば尊し』という小学唱歌の3番の歌詞は
朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆくとし月
今こそ 別れめ いざさらば
となっており、ここにも忘れることと時間の経過との関係が自然と表れていて、忘れることと別れとが不可分であることもこの歌詞にはよく表れている。
「仰げば尊し」と「蛍の光」は別れの曲として歌われているし、「蛍の光窓の雪」と通ずる何かがあり、かの蛍雪時代という言葉もここから出たと思われる。しかし実は両歌に関しては、忘れることと別れの関係はあまり似てはいないのである。『蛍の光』のメロディはスコットランド民謡であることは以前から分かっていたが、「仰げば尊し」の方はごく最近まで誰が作った曲か分からなかったが、最近になってアメリカの作曲家によるものだということが判明したと言う。ただ歌の場合メロディもさることながら、歌詞が決定的な役割と意味を持っている。たとえば「蛍の光」の場合、たとえば4番の歌詞「千島のおくも、おきなわも、やしまのうちの まもりなり」などを読み歌うと、別れの曲であるという観念が変わってしまうように感ずるのは私だけであろうか。ここで、最初から知らなかったことと、知っていたが忘れてしまっていたこととの違いに出合うことになる。
ここからさらに難しい問題に入り込むので今回はこのへんにしておき、「忘れる」ことについては、再度改めて書くことにしたい。
これから「忘年会」の季節になる。何を忘れようというのであろうか。毎年「忘年会」が開かれるということは、この世相には、お酒でも飲んで自然と忘れてしまいたいことがいかに多いかということなのかも知れない。
「忘年会」は公的なものより私的な集まりのほうが楽しいのはそのためであろう。

2 Thoughts on “「忘れる」ということ(1)

  1. 宗像 眞次郎 on 2015年12月16日 at 9:27 AM said:

    「忘れる」というのはとてもいいことだとわたしは思います。冗談ではなくて、もし神様が人間をお創りになったとすれば、そこに神の叡智を感じます。
    過去の、いやなことを忘れられなかったら、その代償を求め続けずにはいられない。
    過去の、すごく楽しかったことを忘れられなかったら、それとの比較で、いまが色褪せたものに思えてしまう。
    忘れることがなかったら、ひとはおそらく出合ったすべてのひとを憎まずにはおれないでしょう。家族も含めて。
    もちろん、忘れて困ることも現実にある。でも、それは物事すべていいことと悪いことがあって、「忘れる」ことも例外ではない、というに過ぎないし、「忘れる」ことを前提に記録し整理するという対策をとれば問題はかなりの程度解決できる。
    「忘れる」から「忘れたくない」という思いもあり、それが愛するひとへのいとおしいと思う感情をいっそう深いものにしてくれる、という面もある。
    さらに言えば、わたしが興味深いと思うのは、ここにも書かれてあるように、「忘れる」というのは主体的な意思にもとづく行為ではない、と言う点ですね。ひとを幸せにするものは主体的な行動とは限らない、ということのひとつの例だろうと思います。
    本文と趣旨とは必ずしも関連しない内容になってしまいましたが、つい普段から思っていることを書いてしまいました。ご容赦ください。

  2. 緒方宏司 on 2015年12月26日 at 12:41 PM said:

    「忘れる」(1)へ 緒方宏司より
    このテーマはとても興味深い事柄のひとつです。
    「忘れ物のないように」は、私も「忘れ物」という「物」はない筈で、いつから、どのような条件で「忘れ物」が出来上がるのかとおもっていました。
    「忘却とは忘れ去ることなり。」この言葉をそうとう昔に知った時、何か深い哲学的匂いを感じたおぼえがある。
    「忘れる」ことは、薄皮を剥ぐように少しずつストレスから解放され、気が楽になってきているのかも知れないと、私は思う。忘れていることに、はがゆさや、悔しさがあるうちは、忘れてはいないと思う。まだその記憶は存在し、ただ奥座敷に
    引っ込んでいるだけだと思う。
    高野辰之作詞「故郷」の「忘れがたき故郷」はいろいろ考えさせられます。
    「忘れる」を含んだ詩を一篇
    忘れた唄 金子みすゞ
    野茨(のばら)はなの咲いている
    この草山に今日も来て
    忘れた唄をおもいます
    夢より遠い、なつかしい、
    ねんねの唄をおもいます。
    ああ、あの唄をうとうたら
    この草山の扉(と)があいて、
    とおいあの日のかあさまを、
    うつつに、ここに、みられましょ。
    きょうも、さみしく草にいて、
    きょうも海みておもいます。
    「船はしろがね、櫓(ろ)は黄金(こがね)
    ああ、そのあとの、そのさきの、
    おもい出せないねんね唄。

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