白州正子さんに「かくれ里」(1971 新潮社)という著書がある。名著だと思う。奈良、京都、近江などを中心に地方にまで足を運び、誰でも名を挙げることのできる著名な場所ではなく、名刹と呼ばれる大きな寺社でもなく、それらの存在に隠れて、ひっそりと佇むように横たわる小さな里があり、そこには無名だが品格があり、自然の美しさと流れ来たった歴史を背負った寺や社が、時の風雪に耐えて今でも静かに生き続け、日本の古くからの信仰を引き継いでいる里がある。そういった一種秘密な場所が「かくれ里」と呼ばれている。それは、自然景観から言っても奥深い感じがあり、世間の娑婆の騒々しさからも逃れた場所であり、まさに「かくれ里」という名にふさわしい場所である、と言っていいだろう。
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長年愛用してきた置時計が止まってしまった。1860年製の、重い真鍮製の置時計のコピーでクオーツ時計である。時計屋にもっていったが、修理不可能とのことだった。形も色も気に入っていたものだけに残念である。クオーツはねじまきする必要がなく、正確で便利だが、寿命が短く、壊れたら終わりだ。時計というものが持つ本来的性格を欠いているのではないかとさえ思う。クオーツ時計の壊れ方は何か不自然だ。それはどこにあるのだろう。
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読書は必ずしも一番読みたい本をすぐ読むとは限らない。どうしても今読まなければならない本もあるし、今日買ってきたきた本をすぐ読み、読もうとしていた本が後回しになることもある。いつも読もうと考えていてもなかなか読み始めない本もある。また、面白いのに途中でやめてしまう本もある。何故だかよくわからない。
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「路地裏」である条件は、大勢の人で賑あわない静かな場所であること。時間が他の場所よりゆっくりと流れるように感じられることの二つである。もう一つ付け加えるとすれば、自分の知らないものが隠されており、ある種の不安を感じてしまうと同時に、これはどこかで出会ったことがあるようにも思える既知性とそれへの懐かしさを同時に感じてしまうような場所である。
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現今の都市はビルやマンションが立ち並び、それが郊外へと広がりつつある。この現象は大都市に限ったことではない。70年代ごろ「庭付き一戸建ての家」に住みたい、という意識が広がった。郊外に住宅のための土地が造成され、いわゆる「団地」なるものが増設されたのもこのころである。都市の中心は土地の値段が高いから、畢竟、郊外に移り住むことになるのである。そうなると当然、通勤に時間がかかる。90年代に入って、遠くの一戸建てより近くのマンション、という意識が芽生え、現代はその考え方が主流だ。自分たちの生活はマンション、ときどき祖父母の家に遊びにいけばいい。戸締りも鍵一つですべて片付く。掃除も楽だし、買い物も便利だ、ということらしい。老人たちも、田舎の家を手放して、都市型の老人施設に住む人が増えているという。この反転現象の原因は、日本が「少子高齢化社会」になったことにあり、それが最近さらに加速されていることにあることは間違いない。
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「路地裏」という言葉には、独特の響きがある。また「路地裏」は比喩的な意味や趣を表現し、伝えてくれる言葉でもある。私はどちらかと言えば「路地裏」を記憶や経験の比喩的な意味や表象を踏まえて使っている。意識的というよりはどこか無意識的な何かが働いているようにさえ思える。「路地裏」という言葉には、表面に現れない何かを隠し、自分にとって不可思議なものに出会う入り口や場所であるようなものを自分自身に言い聞かせるような言葉である。また路地裏は、どこの街、どこの村に行っても出会えるような場所であると同時に、他方非常に具体的で経験可能な場所でもある。「路地裏」に関して一つだけはっきりしていることは、一度も出会ったことのない未知なるものが、既に自分の過去において経験したかのような錯覚を伴うことである。それゆえ、行ったこともない外国や見知らぬ土地でも「路地裏」に出会うことがあり得るのである。
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高速道路や都市を迂回するバイパス道路ができて、街の景観が全く変わった。それは全世界共通の現象である。二点を結ぶ最短距離は直線であるという原理は、人間の理性とそれが要請する技術の合同作業による強引な暴力による結論である。最近自動車道路は、街の郊外にロータリーと呼ばれる方向転化する円形の道路装置が作られ、街中を通り抜けることなく次の都市に直線的に回される。フランスなどでも昔は旧市街を通る道路を走り、車を止めて街の食堂に入ったり、時間の都合がつけば街をうろつくことができた。そうこうしている時間は無償の楽しみであると同時にそこで知ることができた珍しい景観や街並みは喪失することのない記憶となり、時には忘れられない思い出の残る人物に出会い、そこで営む生活の匂いや雰囲気を味わうことができた。そこでたまたま行われている土地のお祭りや骨董市に偶然出会うこともあった。
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知らない町と、すでに自分が住んでいる町との違いは何だろうか。その違いはいろいろに考えられ、さまざまに表現することが出来る。いわゆる精通している町だったら、まず自分が今いる場所が分かるはずである。今自分は橋の東のふもとにいるから、橋を渡ってまっすぐ行くと少し大き目の十字路に出る。そこを左折したすぐのところにバス停がある、そこが自分が家に帰るバスに乗るところだ、五分くらいで着く、早足で行けば4分ほどで行ける。しかも普通はことさら自分が歩いている場所を確かめることなく無意識的に何も考えずに、バス亭にたどりつくことが出来る。というよりは知らないうちにバス停の前に立っている。時には知った顔の人がそこにいる。何の変哲も無い帰路の道である。何も考えることなく家に着く。知らない町だとそうは行かない。まず自分の立っている場所がどこかを、地図で調べるか、通りがかりの人に聞かなければならない。それ以上に心配なのは自分が行かなければならない場所がどこにあるのか、どのくらい時間がかかるか、交通機関が必要なのか、歩いていけるのか、と言ったことが問題になる。だから前もって調べる必要があるのである。そうしないと目的地にたどり着けないことを、経験的に知っているからである。行ったことがないところに旅行する場合、地図やガイドブックが必要なのはそのためである。
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誰も知っている歌に「ふるさと」という唱歌がある。「故郷」と書くのだが、ほとんど「ふるさと」とひらがなでルビをふっている。なぜだろうか。
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最近強く感ずることは、記憶というもののもつ不思議さです。そのことに関して「歴史と文学」の関係の難しさを知らされます。まず「事実」なるもののあいまいさです。私たちは、新聞を読んだり、さまざまな時代や事件にかんする歴史書や、さらには、確定した史実に即して書かれる教科書のような書物を読んで、何がいつどこで起こったかを確認します。しかし、そのあいまいさに驚かされます。普通私たちが事実と考えているものも、実は「事実」そのものではなく、あいまいなものでしかないということです。何で今さらと思われるかもしれませんが、大正時代の歴史と伝記を読んでいて「歴史的事件」とよばれているものも、その事実について書く人によって全く異なってしまうということを実感したからです。「伝記」も全く同じでした。「<事実>などいうものはない、<解釈>があるだけだ」というニーチェの言葉は本当だと思いました。また「歴史はそうあったことを語り、詩作(=文学)はそうあるべきことを語るものだから、歴史より文学のほうが上位にあり、真実を語るのに適している」というアリストテレスの言い分もよくわかる気がしました。今度の東北大震災と福島の原発事故の報道などをきいていて、アリストテレスやニーチェが言っていることは、まったくその通りだと思ったのは私だけだったのでしょうか。「本当の事実」などというものは人間には語り得ないもで、個々の人間が感ずる「心情」だけが真実なのではないか、と。
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