読書は必ずしも一番読みたい本をすぐ読むとは限らない。どうしても今読まなければならない本もあるし、今日買ってきたきた本をすぐ読み、読もうとしていた本が後回しになることもある。いつも読もうと考えていてもなかなか読み始めない本もある。また、面白いのに途中でやめてしまう本もある。何故だかよくわからない。

 80年代だったと思うが、ある出版社の宣伝冊子が「読もうと思っていて、まだ最後まで読んでいない本はありますか」というアンケートを行ったことがあった。私も考えてみた。次号にその結果が載っていた。「旧約聖書、資本論、源氏物語」が上位3点だったという、つづいて、ダンテの『神曲』、モンテーニュの『エッセイ』、ゲーテの『ファウスト』などが続き、その中に日本の作品である中里介山の『大菩薩峠』、島崎藤村の『夜明け前』や住井すゑの『橋のない川』などが入っており、トルストイの『戦争と平和』、ドストイェフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、プルーストの『失われた時を求めて』が名を連ね、少数だがアウグスチヌスの『神の国』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、カントの『純粋理性批判』、親鸞の『教行信証』、宣長の『古事記伝』なども末席にあったという。私はこの結果を見て納得したと同時に、回答者はある程度の年齢の人が多かったのではないかと推測した。しかし、いつそのようなアンケートをとっても同じような答えになるのではないかとも、思った。興味はあっても、なかなか通読するのは難しい「古典」とでも言うべき書物ばかりだからである。読んでる人はよほどの読書家か専門家なのではないかとも思う。しかし、やはり通読することは重要である。中途でやめてしまったら、その書物の価値は半減するだろうからである。意味合いは異なるが、映画を前半の半分だけあるいは最後だけ見ても、その映画を見たことにはならないのに似たところがある。それでもなかなか通読できないのが「古典」と呼ばれるものだろう。学校の教科書のように一部だけしか載っておらあず、先生に通読を勧められても通読する生徒や学生は少ない。通読となると、教師自身も自信は持てないに違いない。漱石の『こころ』ぐらいなら可能だが『源氏物語』や『今昔物語』などになったら、そう簡単ではあるまい。西欧でも、プルタルクの『英雄伝』は子供でも知っているが、通読した人は少ないという。事情は同じで、インドでも中国でも類似した歴史的現象があるに違いない。
 上記のような作品をすべて通読することはほとんど不可能に近い。少なくとも私には無理である。しかし、いつか読みたい、出来たら通読したいと思い続けることはできるし、そう思うことは大切だと思う。「古典」とはそのような含みを持った書物だからである。
 他方また読書は、読む人の目的に即して読み方はいろいろあっていいと思う。ただ、読書には読み終わってまた何度も読みたいと思う書物、つまり「愛読書」と、読みたいと思ってもまだ通読していない、あるいはできない、いわゆる「古典」と呼ばれる書物の二つが、読書と呼ばれる列車の両輪であることは確かであろう。ローカル線や在来線に乗って旅していると、ふとそのようなことを考える。新幹線では無理だ。愛読書も古典も読めない。推理小説ぐらいが関の山だろう。ローカル線だと線路の周りにはさまざまな雑草が季節が移り変わるように生えている。それらの雑草のような本を読むのも「読書の快楽」であることには間違いない。雑草の花は小さくても可憐である。美しい花をこっそりとつけた雑草を探すのも楽しい。古典を読みたいと願いながら、休憩し寄り道をし、かわいらしい小さな花をつけた雑草本を見つけた時は無性に嬉しくなる。そんな書物の読み方にのめり込こんでしまう時間がこれからも続きそうだ。大輪の薔薇や牡丹の花は美しく見とれて見てしまうが、道端にひっそりと咲く小さな雑草の花もまた、いつか誰かに見られることを待ち、願っているのだ。その可憐な雑草の花のような書物を探すのも読書の楽しみの一つであり、そこに、読書の至上の喜びもやってくるような気がする。古典を通読するという命令のような圧力を感じながら思うことは、古典と愛読書は対極にあって、見えない引力によって引き合っているのかもしれない、ということである。左辺と右辺が方程式のように均衡を保っているのだろう。私の場合、方程式が不等式に傾きそうだが、なるべく方程式にもどることを願いつつ、愛読書を読み続けていきたい。

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