「幼年時代のもっとも古い記憶がよみがえるときは、いつも雪景色とともに浮かんでくる」
(マネス・シェルパー『すべて過ぎ去りしこと、、、』)
「桜が散って、このような葉桜のころになれば、私はきっと思いだします」
(太宰治『葉桜と魔笛』)
「後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない」
(伊藤左千夫『野菊の墓』)
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何かを集めることは人間に本能的に備わっているものらしい。何かを収集するという行為は何かを反復する行為と似ているところがある。子どもの遊びを見ていると、どの遊びにも必ず繰り返しの要素が含まれている。最近の子供の遊びや遊び道具を見ていると、一人遊びの要素が強いように思う。兄弟が少ないこともその原因の一つだろうが、子どもの遊びの基本はやはり繰り返し同じ行為を反復することにあり、その繰り返される行為とその結果にある小さな差異に興味と喜びを感じていることは間違いない。最近の遊び道具は、子供の心理、それに親の心理をも考えて興味深く遊べるように工夫してある。子供の遊びに対する衝動は繰り返すという行為にあり、遊びの内容にあるのではない。極論すれば、繰り返すことが出来れば、内容はなんでもいいのである。内容は単純であればあるほどいいということになる。その典型的な遊びが、昔からある「かくれんぼ」「石蹴り」「おしくらまんじゅう」などがある。これらの遊びはいかにも単純である。反復が難しい複雑なものは繰り返しが難しいと、逆に飽きてしまうのである。その点から言うと、最近の子供のおもちゃは複雑すぎて、到底長続きはせず、半年もすれば飽きられてしまうだろう。けん玉や竹馬などの遊びもあるが、それほど現代に普及するとは思えない。 Read More →

「古典」という言葉はよく使われる言葉だが、実はそれ自体としては意味を持たないあいまいな言葉なのである。ある限定した領域、あるいは地域、つまり、「・・・の古典」とか「・・・における古典」とかいう何らかの限定がついて初めて意味を持ってくる言葉だからである。「源氏物語は日本文学における古典である」というような文脈で使われるのである。しかし普通私たちは、あまり厳密にではなく、漠然と「古典」ないしは「古典的」という言葉を使っている。「現代ではなく、時間的に過去のもので、その分野では規範的で優れたもの」というぐらいの意味で使っているのである。 Read More →

「岬」という言葉には、ここではなくさらにその先という意味合いがある。私にとって岬は「その先にはもう行けないが、その先への思いはどこまでも続く」といった漠然とした広がりとあこがれにつながっている。
「岬」という言葉に最初に出会ったのは、戦後すぐラジオ番組で全国の天気という番組だったと思う。「足摺岬では南南東の風、風力2、晴れ、、、」と言った放送を聞いていた時だったと思う。小学生低学年の頃だったので、足摺岬がどこにあるのか知る由もなかった。どこか南の遠い海の近くの場所だろうぐらいで、四国にあるということさえ分かっていなかった、と思う。高校生ぐらいになってからだったと思うが、『足摺岬』(吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、木村功、津島恵子主演、1954年)という映画を見た時、子供の頃聞いた言葉がある実感になったように思った。いい映画だった。いま見ても感動がある。思い込みが強いからかもしれない。それからその映画の原作が田宮虎彦であることを知り、その小説も読んだ。田宮も戦時中は左翼学生だった。戦時下本郷菊坂の下宿に住んでいた主人公の学生が、同じ下宿に身を寄せていた親しい教授がマルクスなどの左翼の本を持っているというだけで官憲に連れ去られるところに出会い、また想いを寄せていた食堂で出前の仕事をしており、自分の洗濯の手伝いや身の回りの世話をしていてくれた女性が、家の事情で郷里の足摺岬の近くの村に帰ってしまってから、主人公は生きる意味を失い、自殺を考えて足摺岬へと向かう。そこで病気になり、その女性に看病され、薬売りの男等に励まされ、再生していくきっかけをつかむ、といった話で、平凡といえば話は平凡だが、菊坂の狭い下宿と足摺岬の風土が当時の時勢と若者の心情をつなぎあわせていて、映画としてよく出来ていると思う。 Read More →

「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に」
ー立原道造『のちのおもひに』よりー
先日、長野県伊那市に住む高校生の頃の同級生夫妻と、上田市にある「無言館」とその前身である「信濃デッサン館」に行った。無言館に一緒に行こうと以前から話し合っていたが、なかなか果たせなかった。久しぶりの再会だった。戦没者画学生の作品や遺品を集めたその美術館は上田市の西北のかなり離れた山の中の塩田平と呼ばれる丘陵地帯にあり、六月末の緑濃き森に囲まれて静かに建っていた。梅雨の合間の明るい光が、装飾の全くないセメントの建物をやわらかく照らしていた。正面の小さな細い入口の上に、
戦没画学生慰霊美術館
無言館
という文字が刻まれていた。「無言館」という文字だけが影のようにくっきりと見えている。中に入ると何かが起きそうな予感がする建物である。写真や本で見たり読んだりしてその概要は分かっているつもりだったが、いざその建物の前に立つと、全く異なった感慨が湧いて来るものだ。その美術館についての感想はまた機会を見て書こうと思う。
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旅することは楽しい。だが、なぜ楽しいのか、その理由は殊の外難しい。自分で旅をし、また旅の本をいくら読んでもその謎めいた旅することの楽しさの理由や意味はよく分からない。ただ確かなことは「旅とは、ここではないどこかへ移動することだ」ということである。しかしそれは旅ということの定義をしているだけであって、旅する楽しさの根拠ではない。最近感ずるようになったのは、旅する楽しさは淋しさと相関関係にあるということである。そんなことは分かりきっている、誰でも言っていることだ、と言われそうだが、もし旅にある移動が伴うとすれば、その移動は行ったり来たり、楽しかったり淋しかったりする相互関係という移動ということではないかということである。 Read More →

以前、「英語仮名交じり文は可能か」という文章を書いた覚えがあるが、最近新聞や雑誌、テレビなどで話されたり、字幕になったりしている日本語を聞いたり、読んだりしていると、日本語も変わりつつあると日々感じている。
言語学者でもある今野真二氏に『日本語のミッシング・リンク』という著書がある。昨年刊行された書物である。副題が「江戸と明治の連續不連続」となっている。「ミッシング・リンク」という表現自体がそれほど一般に使われる言葉でもないし、その内容は更によくわからない。ここで著者は、連続していることが期待される二つの事柄に関して、それが連続していないように思われる、その「間隙」をミッシング・リンクと言っているのである。今野氏は江戸時代の日本語と明治期の日本語のあいだにその間隙があり、それはある「断層」であり「和語と漢語の融合態」から「漢語を(一方的に)減らしたのが、ある時期からの明治期からの日本語ではないか、というのが本書の主張の一つである」と書いている。もしその考えを現代の日本語の中で受け止めるならば、昭和と平成の間にも「間隙」としての「断層」があるように見えてくる。その断層は、おそらくワープロやコンピューター(PC)のワードなどで文章をよく書くようになったことと深く関係していることは間違いないように思う。その結果、まず文章を書くとき、横書きが多くなり、特別な場合でない限り、手紙さえ横書きになりつつある。メモを縦書で書く人は現今皆無になってしまっている。それに平行して生じてきたのが、英語の、いや日本語化した英語の氾濫である。それが良い悪いと言っているのではない。ただ、それがなんとも言えない煩わしさに感ぜられるのは私だけだろうか。まさに「もとからの日本語を減らし、わけのわからぬまま英語をカタカナにして多用するようになったのである」やはりそこに、今野氏の言う断層が現れている、と言っていいだろう。つまり、われわれの現今の日本語はそのように変化しつつあるということだ。ただ明治期の人々は言語の変化に意識的であったということには注意しておく必要がある。そこが重要なのだから。明治期の「言文一致」運動なども一つの意識的に考えられ意図されたた運動だった。しかし、現今の文章は何の抵抗もなく、無意識的に変化してしまっている、というところが問題のように思える。 Read More →

人はいつか必ず死ぬ。この言葉は世界中どこでも通用する唯一の重い言葉と言っていいだろう。それは民族・国家・宗教・時代などと関係ない。全ての人間がこの地上に生まれてきた証でさえあるのだから。死自体は普遍だが、それを取り扱う方法や埋葬の仕方は地域・宗教・時代等によって様々に変化する。
私は旅行をした時、国の内外にかかわりなく、できたらその土地の墓地を見に行くことにしている。旅の途中で過去の記憶をたどったり、様々な夢想に取り憑かれたり、時にはまた自分の現在の姿を振り返ったりするのに適した場所だからである。墓地は、自然と人間がいかに深くつながっているかを考えさせてくれる場所でもある。また今現に、自分がやってきたその土地にかかわる、かなり昔からの生活習慣などがそこにはっきりと残っているからでもある。墓地に行くとやはり、自分よりも早く亡くなってしまった人々に対する思いが自然と胸に響いてくる。葬られた人の身分によって墓のある位置や大きさ、墓碑銘などの書き方、刻み方などが変わってくるのは、どこの土地にも共通しているように見える。墓地は歴史と社会のあり方を示している場所でもあるのだ。 Read More →

私の周りに、俳句を作る人が結構いる。毎週句会に出かける人、すでに自分の句集を発刊している方も多い。俳句は私たちに馴染みある文学なのだろう。外国にも俳句を作る人は多くいるという。俳句が世界で最も短い詩型だという一般論は、世界によく知られれいる事実である。俳句についての書物も、私たちが考えている以上にたくさん出版されている。自分で句作している人も多い。ただ私に気になるのは外国語で俳句が作られうるか、ということである。外国人が俳句として書いた作品を読むと、ただ短い句を三行に並べて書いたとしか思えないものから、苦心して英語・独語・仏語などの母音の数を五・七・五に合わせてあるものもあるが、どうしてか俳句にはなかなか近づかない。芭蕉、蕪村、一茶などの句を翻訳した文章を読んでも、翻訳者の苦心や努力は伝わってくるし、言いたい意味や状況は分かるのだが、俳句の感性はなかなか伝わってこないのである。日本語による俳句の特質を知っているので余計俳句らしさが感じられないのかも知れない。また、私が外国語に長けていないからかもしれないが、やはりそれだけではなさそうだ。やはり俳句は日本語でなければ成り立たないようにさえ思われてくる。
友人に短歌・俳句・詩をよくする方がいる。NHK の短歌や俳句によく紹介されたり多くの賞をとっている方である。彼の友人でドイツ語で俳句を作る方がおられ、その方の作品集が送られてきた。二つの言語が並列されて書かれている。ドイツ語で書かれた方の 文章を読んでも俳句らしい感じはしないのだが、友人が訳した日本語のほうをみると、不思議にも俳句らしくなっているのである。内容から見るとニュアンスには違いがるが、両方ともそれほど違ったことを言っているわけではない。にもかかわらず、ドイツ語の方はいわゆる「俳句」になっていないのである。友人の日本語ヘの翻訳が優れていることもあるのだが、ドイツ語の文章を読んでみても、どうしても俳句とは思えないのである。完璧なバイリンガルの方、つまり両方が同じ程度に高度な語学力と知識のある人が読んだら、両方とも俳句のように響くのだろうか。そこのところはよくわからない。外国語で書かれたものは「HAIKU」日本語のものは「俳句」と言っていいと思うが、うまくすれば「HAIKU=俳句」になる可能性もあるのかも知れない。 Read More →

「みる、きく、よむ」は「日時計の丘」の当初からの標語であった。この三つの組み合わせで、文化を総合的に捉えようとしてきた。これまで決してうまくいったとは思っていないが、そのモットーを目指してきた。それなりに私たちの試みを理解してくださった方もおられ、有難いと思う。それを踏まえて、私たちはさらに進んでいかなければならない。先がはっきり見えているわけではないが、終わりがないことだけは確かのようだ。あとは何か余韻のようなものが残り続けてくれることを願うより外にない。 Read More →