言葉と物、思考と感性は密接に結びついている。一方が失われば他方もそれに続いて消えていく。切り離せないのだ。例えば、梅雨に降る雨は「しとしと」降る。現今の雨は豪雨に近く、局所的に降る。庭石にしとしとと長く降ることはなくなってきた。それに連れて「しとしとと降る雨」という表現も薄れていく。それに歴史的に長く語られてきた言葉にはそれなりの品格が備わっている。最近言葉がその品格を失い、使うのもためらうような言葉が流布するようになってきている。私たちの意識が社会の動向に翻弄されてしまっているのだ。
「就活」や「婚活」、「セクハラ」や「パワハラ」など、現在普通に使われる言葉にも日本語として品がないと感ずるのは私だけなのだろうか。しかもそれらの言葉はここ20年ほどの間に使われ始め、マスコミを通して急激に広まった言葉が多い。品のない言葉はその類似語を生み、拡張され広まっていく。そのような言葉は無数にある。しかもその変化を私たちはあまり意識しない。そこが問題なのである。そのような言葉の変化は、例えば「就職斡旋所」を「ハローワーク」などと呼び替える様になった頃から、著しくなったように思う。更に問題なのは、その言葉の変化に関心がなく、言葉の重みや品格などという意識そのものが消え失せてしまったことである。その変化にスマートフォンやiPadのような通信機器がさらにそれを加速させている。この所日本人は他国の人に比べて、経済性と便利さという合言葉に翻弄されて、大切な物に対して労を省くようになってしまったのである。悪く言えばずるくなってしまったのである。言葉に対しても同じような軽薄な態度をとるようになってしまった。相手に対して尊敬や感謝の意を忘れ、言葉を単なるコミュニュケーションの手段としてだけ使うようになってしまった。「お話よく分かりました。有難うございました」と書くのと「了解しました」とだけ書くのとは、やはり大きな違いがあるのである。もう一つ外国語の使い方、特に英語に関して大きな誤解をしているように感ぜられる。英語自体の意味を間違って理解していることが多く、文脈を無視して使っている場合も多い。その点に関しては、古代、漢語を導入し、和漢混合文を編み出し、日本語の書き言葉を定着させた奈良から平安にかけての時代、また幕末から明治初期にかけて、英語、ドイツ語、フランス語などの外国語の導入には神経を使い、日本語の品位を落とさず、しかも新しい日本語に馴染むように努力してきた歴史を忘却し、さらにはそれを無視するようになってしまったのである。特に1970年頃からその傾向が強くなり、奇妙な、外国語とも日本語とも言えない俗語が流通するようになってしまった。21世紀に入ってその傾向は更に強まってきている。以前は「河原言葉」や「任侠言葉」にさえある種の品格があった。現在私たちは、言葉への関心を喪失しまったのである。しかもそれはごく最近のことである。 例えば英語を翻訳して日本語の文脈のなかで使うのと、日本語を英語化して奇妙な日本語を造成して流通させるのとは、似て非なるものである。言ってみれば、現在私たちは古来の日本語の美しさと品位を自ら放棄してしまっているのである。日本語の歴史の中で現今ほど日本語の歴史を顧みず、品位を失った俗語を流行らせ、奇妙な和製英語を平気で使ってしまって、日本語の文脈から外れてしまっている時代はかってなかったのだと自覚すべきである。これが本当の「敗戦」の意味であり結果であることを、この事実は私たちに教えている。力では負けたかもしれないが、言葉で敗北することは決してあってはならないことを、強く自覚すべきではないだろうか。
私が少年期を過ごした村は、いわゆる江戸の五街道であった「甲州街道」、後の国道20号線より更に西に位置する何の特徴もない農村だった。村役場と学校以外に何もなかったが、古い風習だけは残り続けていた。冬は「夜晩」と言って夜中に「火の用心」と叫びつつ鉄の棒を地面に打ちつけながら歩いた。また、その集落の方が亡くなると、当番にあたっている人達が墓を掘った。私も中学生の頃、その墓掘りを手伝わされた。今のように機械ではなく、シャベルで墓を深く掘るのは結構な大変な仕事だった。大半は大人の方がやってくれたので、私は掘り起こされた土を周りに広がらないようにする仕事をしていたように記憶している。軒数は二十軒程しかないのに、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗の寺が並ぶようにあった。それに甲斐源氏の祖、源義清を祀る「義清神社」がっすぐ近くにあった。もちろん八幡神社もあった。その頃は何も気にはならなかったが、後になってこんな狭い地域にこれほど多くの寺や神社あるのは珍しいのではなかろうかと思ったが、当時の村落はそんなものだったらしい。大神社や大きな寺はなかったが、土着化した親しみのある寺や神社だった。
甲州街道が浅川(今の高尾)で東京に別れを告げ、与瀬(今の相模湖)を下に見て、笹子峠から奇矯猿橋を渡り、勝沼・塩山を迂回して下り、日下部を経て、古事記にも出てくる「酒折宮」を右手に見て甲府に着く。それから竜王に向かい、切り通しのような赤坂の峠を越え、塩川のせせらぎを渡って韮崎に出る、それから若神子を通って、茅野・諏訪に向かうというのが私の頭にある甲州街道である。しかし今はどうか。中央道という高速道路が出来て甲州街道は一変した。私の村も中央道によって東西に分断された。しかも西に向かう昔から「身延道」(みのぶみち)と呼ばれていた街道は、自動車道路に拡張されて、わが村は一変した。これほど変わってしまった村も珍しいのではないか。今は何も特別なものはないが、農村の面影を残していた村落は、今や甲府市のベットダウンになり、大きな百貨店が進出し、映画館さえ出来た。蓮華畑が何処までも広がり、葦沼の向こうにまだ雪を残したた南アルプスが遠望できた風景はもう無い。子供の頃の眼に焼き付いていて離れない風景は失われてしまった。だが、私の脳裏からこの故郷の原風景が消えることはない。
それに、平成の大合併とかで、土地の名前も新しくなり、古くから在った名前は「甲州市」とか「甲斐市」とか「北杜市」などと一般化された名前に吸収されてしまった。土地の持っていた歴史的・文化的意味は確実に消えていく。名前に付きまとっていた風土的実感が伴わなくなってしまうのだ。それによって昔使っていた土地の名前もそれに伴う懐かしい風景も明らかに消えていってしまうのだ。時の流れとはいえ、これで本当にいいのかと思う。これまで流れてきた歴史を政治的・経済的な暴力によって切断していいのだろうか。平成を生きた私たちにも大きな責任があるのではないか。

One Thought on “失われていく風景、消えていく言葉

  1. 宗像 眞次郎 on 2016年7月19日 at 7:31 PM said:

     わたしもことばに関しては保守的なので、まったく同感です。ことばを意思伝達の手段としか思わない風潮には強い嫌悪感を感じています。わたしの趣味である音楽の世界でも、「モツレク」だの「ベトシチ」だの「ブライチ」だのという、耳にするだけで悪寒を覚えるようなコトバが当たり前のように流通しているのは嘆かわしい限りです。
     ことばはそれ自体貴重な文化なのだから、もっと大切にしてもらいたいものです。ことばによって感情も、あるいは思想さえもかたちづくられる、と思います。
     ただ見方を変えれば、ことば自体、少しづつ変遷していくという面もあります。間断なく出ては消えるいろんな単語のうちなにがしかは、いまの時代の空気と親和した、語感をともなったことばとして定着していくことでしょう。それらは、のちの時代のひとびとにとっては、歴史を偲ばせる手がかりとなるかもしれません。
     そういう意味では、怪しげなカタカナ混じりの単語も、ある意味必然性を伴って現れているのかな?という気もしないでもありません。
     でもそのあたりはまだ確信が持てません。いずれにせよ、日本語の美しさへの敬意だけは失いたくないな、と思っています。

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