「幼年時代のもっとも古い記憶がよみがえるときは、いつも雪景色とともに浮かんでくる」
(マネス・シェルパー『すべて過ぎ去りしこと、、、』)
「桜が散って、このような葉桜のころになれば、私はきっと思いだします」
(太宰治『葉桜と魔笛』)
「後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない」
(伊藤左千夫『野菊の墓』)

「思い出すということ」は、忘れ去られた記憶がよみがえってくることであるが、そこには必ず、物、季節、風景などの具体的なものが介在している。記憶の内容だけが抽象的に孤立して甦ることはあり得ないのである。それに日本の場合、記憶と季節が深くかかわっている場合が多いような気がする。季節を私たちは普通、自然の推移や変化にまつわるものと考えているが、実は人間の営みが季節をその記憶に付着させているのである。いわゆる四季は単純な自然の移り変わりでもなく、固定した自然概念でもないということだ。
人間の営みの記憶、特に「旅立ち」とか「別れ」の記憶はその場所と季節と不可分である。死が「別れ」の極だとすれば、その記憶が季節とともに思い出されるのは自然である。死者との別れ、あの人の弔いの日は紅葉の頃だったとか、彼の人の弔いは、雪の中の野辺の送りだったとか必ずやその別れの季節が同時に思い出されるのである。「思い出すこと」とは、結果的に「ある何かとの別れ」がその核になっている心的な営みであり、日本の風土においては「別れ」は季節感をともなって記憶されるのである。
伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の場合、ここでも幼なじみであった民子の死が、野菊が咲く「後の月」(9月13日)という季節を思い出させ、その記憶を老いた政夫に喚起させているのだ。そこが、この小説を限りなく哀れなものにしている理由のような気がする。民子の墓は、政夫にとっていつまでも「野菊の墓」なのである。
歳のせいか、最近私も今まで思い出しもしなかったことをはっきりと思い出すことが多くなったように思う。しかも思い出すのは、幼少の頃のことが多い。戦後の食べるものもろくにない貧しい時代に農村で幼少年期を過ごしたのだが、暗い思い出はない。その頃の私にとって、食糧難も敗戦などといった難しいこととは無縁な出来事だった。
家の近くに、家の前に大きな屋敷の広がる農家の家があった。そこに黒く硬い実をつける椋の木があった。その椋の実が落ちるころ、近所の女の子たちはその椋の実でおはじきのような遊びをしていた。その家に私より一年上級の女の子がいた。そんなに親しかったわけではなかったし、話をしたことも一緒に遊んだこともほとんどなかったが、なんとなく気になる存在だった。学級が違うこともあって姿を見たという記憶は小学生の頃が最後だった。それから今まで、その女の子のことは忘れており全く記憶に残っていなかったし、思い出すこともなかった。しかし、最近、椋の実で遊んでいたあの女の子は今どうしているいるのだろうか、とよく思うようになった。風の便りに、亡くなったということを聞いたような記憶があるが、定かではないし、そんなことはないと思う。おそらく私のことなど覚えていないだろうが、出来たらお会いしてみたい人である。彼女の顔ははっきりと記憶に残っていないが、広い庭の西の片隅にあった椋の樹の下で遊んでいた少女の姿を私は今はっきりと思い出すことが出来る。何故かその姿に言い知れぬ懐かしさが付着しているのである。そんな時不思議にもその人に急にお会いしたくなるのである。「思い出すこと」とは「別れ」と同時に「再会する」という儚い希望ともつながっている、と最近強く感ずるようになったのも、この思いからと言ってもいい。記憶の中で現実と夢が交差するようになってきたのかも知れない。
明日から11月、霜月になる。椋の樹が実をつける季節だ。それにしてもあの人は今どうしているのだろう。

One Thought on “「思い出す」ということ

  1. 宗像 眞次郎 on 2015年12月8日 at 4:33 AM said:

    思い出すことは分かたれたものとの再開への淡いあこがれと関連しますものね。
    小林秀雄さんでしたか、「過去は美しい。死んだ人間は生き生きとしている。今生きている人間は、人間になりつつある動物のようなものか」と なにかに書いていましたが、思い出すという営みにわたしたちが感じるいとおしさは、過ぎ去った過去がじつにさまざまな味わい深い情感を搔き立ててくれるからに違いありません。
    いっぽうで、わたしたちは今現在を生き、自らの行動によって未来のかたちに影響を与えているのだけれど、そのような日常の行動の背景では利己心や功名心を小賢しげな知恵でカムフラージュしているいやらしさをうっすら自覚している。これはみなそうなんだろうと思います。
    そう思えば、再会したいと願うひとにもしほんとうに再会できたときどうなるか?これはなかなか切ないものがあると思われます。
    わたしが誰かに、「あのひとともういちどあいたい」と思われ続けていられるとしたら、それは私が死んでからのことかもしれません。
    「思い出すこと」ということについて思いをめぐらしながらお読みしたら、そんなことがあたまに浮かびました。

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