私の学生時代に「孤独な群衆」とか「群衆の中の孤独」とかいう言葉が流行ったことがあった。その時、「孤独」ということが辞書的な「ひとりぼっち」とか「話し相手がいない寂しさ」とかいった、当本人が直接感ずるものではなく、他者との関係に中で作られるものだということを意識させられた覚えがある。言葉は同じ言葉でも意味やニュアンスが状況によって変化することは確かだが、今思うことは、言葉は他の言葉との関係のなかで決定されるということであリ、時によっては意味が反転してしまうこともあるということである。

高齢化社会になり、一人暮らしの「孤独な老人」とか、亡くなってから一週間も経って老人が一人で炬燵で死んでいたようなとき「孤独死」というような言葉を使うようになった。そういった場合、「孤独」という表現は、当本人の感情や想いの表現ではなく、「孤独」という言葉が他者が推測して意味づける言葉になってしまっているように思える。私がそこで思うことは、「孤独な老人」や「孤独死」という表現に現今の社会事情を読み取ることは出来るし、わかり易い表現とは感じても、そういった表現は「孤独」ということ事態の特殊な深層にまで届いていない気がする。老人が孤独な感情を持つのは当然のことであり、現代社会の一面を言い当てているとしても、ことさらに現代的な現象というわけでもない。現代社会において、言葉の真の意味で孤独なのは若者のほうではあるまいか。
先日「試される時代のなかの美学」という催しで、「AKB48と劇場文化」という話を聞いた。今人気絶頂と言われている「AKB48」は、閉塞感が漂う現代社会の中で、逆に外部との連絡を絶った密室性の高い「劇場公演」を毎日行うことによって、幸運にもチケットを購入できた人は劇場の中で「参加型」の、出来なかった人は劇場の外で「いま、ここ」あるいは「擬似同期」の感覚をそこでたむろしている人々と共有し、入場できなかった人たちも、今この場所で話し合いをしながら交流をしそれぞれのコミュニティを形成しており、それなりにここに来たことの意味と楽しさを享受している、というのだ。また「AKB48劇場」のある秋葉原から発したその劇場文化は、東京から地方都市へ、さらには国境を超えてアジアへ、国民国家を超えて多民族、他宗教へと広がりを見せている、という。そういった意味で「AKB48現象」は社会学的にみても、現代社会を分析する画期的な出来事だ、といのが話の中心だった。私はAKB48のファンでもおっかけでもないし、深くコミット出来るわけではないが、現代の若者(世代を超えていると彼らは言うが、やはり若者が中心だろう)の動向がそのような形に向かっている、ということは理解することは出来た。
しかし先日、あるネットの記事で、誰が書いたかわからないが「AKB48は、現代版女工哀史」という記事を読んだ。大正14年に出た細井和喜蔵の『女工哀史』に書かれている事態と現在の「AKB48現象」はどこかで通底するものがあると、私も直感的に感じた。それを分析するのは容易な仕事ではない。ここでその構造的類似性を指摘できても、それを政治学的・経済学的・社会学的あるいは思想的・文化的な観点からの分析する用意は今の私にはない。
ただ、ここでひとつだけ言えそうなことは、生糸を噤む若き女工たち、それを囲む社会には過酷な労働が強いる「貧困と苦悩」があり、それは殖産興業という合言葉を言挙げする「発展と希望」という表現に押しつぶされた忌忌しい事態ではあっても、それは「孤独」という感情とは無縁だったように思う。女工たちには疲労と涙はあっても、同じ境遇にあるという連帯感のようなものがあり、いわゆる「孤独」ではなかったのだ。それに反して、AKB48のメンバーやそれへ参加に憧れる多くの志願者たち、それに、その公演に集まる人々には「貧困と苦痛」を直接経験することもなく、意識もしないしだろううし、「孤独」という言葉あるいはその感情が目に見える形で表面化されることもないが、その現象の裏側を流れているのは、意識されない現代に特殊な「浮遊する孤独感」とでも言うべき不透明な社会現象に苛まれている結果ではなかろうか。その現代的意味の深さと大きさは、現代の「孤独死」などという表現とは比較にならないほどの歴史的な重みを持っているように思える。明治、大正から昭和前期に、長野県の諏訪湖湖畔にある岡谷の町に強制的に集められた貧困家庭の女工たちには、過酷な労働による「身体の疲労と苦痛」はあったが、彼女たちは「孤独」ではなかった。だが、憧れて自分自身から志願するAKB48にかかわる少女たちは、厳しい規制と練習による身体的な苦痛や疲労、また選別されることによる精神的不安や恐怖のような感覚はあろうが、それが現代社会が必然的に培養し、無意識的に強要している現代の人間関係が作りだす「孤独感」の顕在化であることに気づいてはいまい。その孤独感は、かわいい衣装、その姿に似合った踊りや歌、それに熱狂する観衆の歓声に隠されてしまっているのだ。だがそこには、変幻自在に変化しながらところを選ばず埋没し、人間存在を危機的状態に陥れてしまい、実体をなかなか表さない資本主義の亡霊がそこに潜んでいることに疑いない。そここそが「AKB48現象」の実の問題点であり、『女工哀史』を引き合いに出す意味もそこにあると、言っていいと思う。AKB48現象を見ていると、「貧困から孤独へ」という歩みは現在着実に進行しているように思えるのである。経済的な貧困がなくなったと言っているのではない。「孤独という貧困」が新たにやてきたと言っているのである。この「新たな孤独」という、これまで経験したことのない、あるいは実感することのない「孤独なる現象」が現代の若者を無意識的に覆い始めているのだ。

2 Thoughts on “「新たな孤独」ということ

  1. 早瀬遼子 on 2013年3月24日 at 10:43 AM said:

    井口先生、昨日はお世話になりました。
    覚えていてくださってとてもうれしかったです。
    AKB哀史、面白く拝読しました。
    彼女たちを取り巻く世界は、「孤独」を覆うきらびやかな衣装とファンの声援、テレビやカメラのスポットライトによって、一見華やかに見えるけれども、ふとした瞬間に虚無感や脱力感に襲われそうになる、そんな世界なのだと思いました。
    そして、それは多かれ少なかれ現代の社会を表象しているのだと感じます。
    とっても楽しいですね。
    ぜひ次の機会には参加したいです!

  2. masatoshi iguchi on 2013年3月25日 at 7:18 PM said:

    早瀬さま
    「日時計の丘」のホームページにいらしてくださりありがとうございます。
    「新たな孤独」にたいするコメント、その通りだと思います。若い方こそ、その「新たな孤独」を現代社会の中で実感し、その意味を考えさせられているはずですから。
    またブログを覗きに来てください。

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