子供の頃から「流浪の民」という曲を聞かされてきた気がする。姉がよく歌っていたからである。戦後すぐの頃のことである。それから「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後の言葉だけが耳につてはなれなかった。今もそれは変わっていない。何か分からないが、田舎に住んでいた私たち子どもにとって「流浪の民」という言葉から見知らぬ異国の世界がどこか遠いところにあり、そこで何処へいくとも分からず、彷徨っている人達のことが気になったのである。「流浪の民」とはどんな人達だろうと。この曲がシューマン作曲の合唱曲であることを知ったのは、高校の時音楽部の人たちが音楽室で歌っていたし、それが当時は合唱曲の定番であった事を知ったのもその頃のことだ。その時も「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後のところだけがやけに響いてきた記憶がある。この合唱曲は現在はあまり歌われなってしまったらしい。「流浪の民」とい言葉も忘れ去られてしまうのだろうか。 Read More →

誰にでも物を収集する癖があるという。程度問題でもあるが、物を集めることは何故か楽しいことらしい。収集癖は人間だけでなく動物にも観察されるという。人間の場合それが過剰になってしまうところが動物と違うところだろう。
最近見ることはほとんどなくなってきたが、「なんでも鑑定団』というテレビ番組が長く続いている。収集に関心のある人が多いからだろう。それに収集したものが本物か、偽物かを専門家の方々が判定してくださるので、自分が鑑定を依頼した収集家が持参したもの対する判定を聞いて取る悲喜こもごもの態度が、家伝として大切にしていたものが全くの偽者だったり、ふと偶然に手に入れて忘れていたものが、重文に近い希少価値があるものだったりして、判定の結果を聞いた収集家の人間模様が垣間見られてこれもこの番組の魅力だろう。しかし、この番組に批判的な人もいる。私の知っている骨董屋さんは、あの番組のお陰で価格が吊り上げられたり、過小評価されたりする影響が出てきて困る、というのだ。骨董そのものには、私はあまり興味が無いが、気に入ったものを自分の手もおとにおきたいという願望はある。 Read More →

以前から気になっていたことだが、外国の国名、都市名、人名の日本語表記をもう少し考える必要を感ずることが最近多い。外国語の表記はどこの国でも悩ましい問題であるらしい。アラビア文字は私には判断がつきかねるが、アルファベットを使用する欧米諸国また漢字文化である中国語と比較しても、外国語表記に関して、日本語は漢字、ひらがな、カタカナの三種類の表記文字、ローマ字を使えば異なった4つの表記ができるので、こんな便利な言語は、世界中どこを探しても日本語以外にはないだろう。にもかかわらず、NHKの放送の字幕に「ベートーベン、交響曲第5番ハ短調『運命』」とあったし「ロミオとジュリエットの舞台になった都市ベローナ」と書いてあった。私はなにか恥ずかしい感じさえした。全てではないが、まだ新聞のほうがましである。フランスの作曲家<Ravel>は「ラヴェル」と記してあったし、イタリアの水の都<Venezia>は「ヴェネチア」と書いてあった。長椅子<bench>は「ベンチ」でいいが、合板<veneer>は「ベニア」ではなく「ヴェニア」の方が正確である。しかし、言葉はすでに流通してしまったら変えようがないところがある。「べニア板」を「ヴェニア板」と言ったら誰も分からないし、「テレビ」を「テレヴィ」と言ったらキザに聞こえる。難かしいのである。それは感覚の問題でもあるからである。 Read More →

一昨日北陸新幹線が開通したということで、金沢駅が新たな賑いを見せている、という新聞記事やテレビのニュースが流れていた。それを見ながら、大学生の頃北陸・山陰に惹かれて旅をしたことを思い出していた。北陸線はまだ単線でで電化もしていなかった。良寛の故郷出雲崎に行き、引き返して糸魚川から北陸本線に乗り換えて富山方面に向かう。途中旧北陸線の親不知から市振の海岸までは、鉄道の路線に海岸からの水しぶきがかかるのではないかと思われるほど海に近いところを走っていた。そこで北陸に来たという感じが強くした思い出がある。小さな駅で汽車が止まり、そこで当時の社会党の江田書記長に会い、少し話をした記憶がある。社会党の全盛時代だったのだがそこで何を話したか覚えていない。夏だったのだろう白い半袖のシャツを着ており庶民的な感じがした一方、政治家としての貫禄がありまた優しい感じもした。現代の政治家には感ぜられないものだった、ように思う。お話しした駅のホームは狭く、この駅も海岸の直ぐ側あり、駅の向こうに日本海が北に向かって広がっていた。この時の日本海の風景が今でも私の北陸の印象として残っており今でも忘れがたい。 Read More →

言葉とは不思議なものだと、最近強く思う。
子供も大人も、先ず言葉を覚える、ないしは言葉を聞く。その言葉の意味するところが分からないまま、言葉のほうが最初に来る。そのあと時間が立って、覚えた言葉の意味ないし物が何であったかを、事後的に知るのである。逆ではない。意味や物を知ってから言葉を覚えるのではないということだ。ただ、言葉を覚えてから意味ないし物に行き当たるまでの時間が様々なだけである。 Read More →

立春を過ぎたというのに、ここ福岡柏原の地にも雪が積もった。普通なら日記に「昨夜雪が降った」とぐらい書くところだが、今は日記をつけていない。「三日坊主」と言う諺が一番当てはまるのは日記を毎日書くことだと、どこかの文芸雑誌の記事で読んだことがある。私もその例に洩れない。高校大学のころ、また中年になってからも書いていたが、何故かやめてしまい、今は時間があるのに書いていない。怠惰なのである。私の母は九十四歳まで日記をつけていた。あまり長い文章ではないが、家計簿のうえの欄にその日の出来事、家庭裁判所に出かける、とか、誰それが来客、あるいは友人に私信を書くなどと言うようなことが簡単に書いてある。時には葬式に参列した時の様子や思いを綴ってあることもある。母の日記をみると明治生まれの婦人の心意気のようなものさえ感ずる。若い頃は私情を伴った文学的な文章も書いていたようだし、兄、妹、私が大学生の頃には「息子に送金」などと小さな字で書いてあることもあった。父がなくなった後の晩年は「茶室の前の草むしり、のうぜんかずらの花がたくさん咲いている」などのような日常茶飯事や「となりの親戚から秋茄子をいただく」など、身辺に起こったことをこまめに書くようになったようだ。ただ、このような文章を短く書く時、母はどのような心境だったのだろうかと、思うことがある。夜寝る前に書いていたようだが、冬など書きながら炬燵で眠ってしまうことがある、と生前言っていた。日記には様々な体裁のものがあるのだと思う Read More →

川は人間の生活と密接不可分な関係にある。現代は道路のほうが重要になり、地図を見ても川は無視される傾向にあり、川の名前が書いてない地図も多い。自動車なるものが登場してきてから河川は道路に重要度を奪われてしまったのである。しかし川の重要性がなくなったわけではない。そもそも日本は海に囲まれた島国だが、海洋国ではないし、そう呼ばれることもない。日本はやはり山と川の国なのである。「山は青きふるさと、水は清きふるさと」なのである。ただ、海がそれを支えてくれているのである。その全体像を把握するまでに私は30年かかったと思っている。私は海のない、山と川だけの甲斐の国に育ったからである。小学5年生になるまで、海を見たことがなかった。テレビもなかったので海なるものを想像することさえなかった。「海は広いな大きいな、、、行ってみたいなよそのくに」と言った教科書の言葉が、まさに夢のように思われた子供時代を私達は送っていたのである。 Read More →

「峠を越える」という表現は、危機的状況が去リ元の状態に戻るような時に使われることがある。例えば「熱が下がったし、風邪もやっと峠を越えたようだ」というような表現は、病気の危機的状態が緩和され、以前より病状がよくなってきたという安堵感を感じさせる。峠を越えたという安堵感は、実際に峠を越えた時に実感させられる感覚でもある。また逆に「峠を越えられなかった」という時には、身体的・精神的な頼りなさを感じさせられる。そこを越えなければならない度合いによって諦めの付く場合もあるが、どうしても越えなければといような時には敗北感がつきまとうことさえあり、大きな心的打撃を受けることがある。「峠」はある目的を達成しようとするとき、行き手を阻み、あるいは拒むものの比喩にもなっている。
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最近手紙を書かなくなった。手書きで書くことは殆どなくなってしまった。手書きの手紙が来ることも少なくなった。書式による通信はほとんどメールなるものになってしまったのだ。お年寄りでコンピューターを使っていない方には今でも手で書くこともあるが、封書ではない、つまり手紙ではなく、事の内容だけを書く走り書きなようなものになってしまった。字が下手なことも手伝って、今は手紙を手書きの文字で書くことは全く希になっている。それは私だけでないらしい。現今郵便受けに投函される郵便物は、公的なお知らせや請求書、あるいは商品の宣伝ばかりになってしまった。にもかかわらず、時に手書きの手紙やハガキが入っていると嬉しくありがたいと感ずるのはなぜだろうか。
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