このところ、テレビも新聞も、新型コロナについての話題を毎日のように報道している。しかしその記事を読むと何を報道したいのか分よく解らない。「大変だ、大変だ、これからどうなるのだろう?」と叫んでいるだけだ。「コロナ対策」などと銘打って報道しているが、何をどうしたらいいかかという具体的な対策は全くない。実はそこが問題なのである。専門家の話を聞くとか言うが、専門家が出てきても話は一般論が語られるだけで、話は一向に先に進まない。聞く方も話す方もイライラしているだけである。そのイライラこそが、新型ウィルスのもたらした問題の核心である。つまり新型ウィルスについて実は誰にも分かっていないのである。専門家にも子供にも分かっていないのである。『裸の王様』のお話では、見栄ばかりの大人達には「王様が裸である」とは言えなかったが、「あの王様何も着ていない」と叫ぶ子供がいた。そこがそのお話のオチでもあった。
「新型コロナ ウィルス」について語っても、そのオチがない。子供さえ沈黙している。世界中に蔓延し広がっているというのに、誰もそれについて語れないのだ。そこが問題なのである。街角で世間話をする奥様方も好き勝手に自由に叫ぶ子どもたちも
何故か沈黙している。さてどうするか。

「狼が来たぞ」と、大声で叫ぼう。恥ずかしいならひそひそ話でもいい。要は口に出して言葉にすることだ。

今日は 令和(2021)年2月3日立春である。
このところ「日時計の丘」のブログ活動を一時停止していたが、また復活させ新たに始めたいと思います。何故中断していたか。これといった理由はなく、私の悪い癖で、怠惰としか言いようがありません。このところ、新型コロナウィルスの流行の影響で、あらゆることが普通には行かなくなってきた、いわゆるコロナ渦に巻き込まれており、逆に現在こそ大切なこと、我が身におこってくることや考えていることについてか書き記しておく必要性を感じているのかも知れません。気分的には以前と変わりなく、まさに「徒然なるままに」ですが、他方実態としては、今までにない緊迫し緊急したことがらに見舞われているというのが実感です。書く内容は様々で各文章も雑文になってしまいそうですが、誠意と緊張感を持って書きたいと思っています。意見や感想がありましたら自由に書いて、是非投稿して見てください。よろしくお願いいいたします。

今更特別書くこともない話題ではあるが、わたしの一生のテーマではある。
個人的なことで恐縮だが、私は本を読むのは好きだが、読書家ではない。書物はある程度あり、書庫もあり図書室もあるが、書物の収集家ではない。書物の内容も決まっているわけではなく、いわゆる特殊な専門分野があるわけでもない。これはどうしても読まなければならないとか、これだけは読んでおくべきだと言った特別な書物があるわけではない。もちろん、今話題になっている事に関する本、今までに読んで面白かった著者の新刊などをまず読むことはあるが、読む本にそれほどのこだわりがあるわけではない。言ってみれば行き当たりばったりに読んでいるだけである。それでも、こんなに面白い本あるのだと嬉しくなる書物に出会うこともある。いずれにしても中途半端、世間で言う物にならない生活を送ってきたのだから仕方がない。今更それを変えることはできそうにもないが、変えようとも思わない。変えようと思っても変わらないし、あるきっかけによって、瞬時に変化してしまうこともある。 Read More →

最近新聞に様々な旅行の案内が掲載される。「一人でも参加できます」などという文句が目につく。近所の知人が、昨秋チベットに行ってきた、この夏は北欧のノルウェイに行く予定だとおっしゃっていた。一人でもそういった旅行ツアーに参加しているのだと言う。確かにその広告を読むと、言語が出来なくても案内人が付き添っており、ホテルも決まっているし、その土地で見るべき場所や建造物の見学は要領よく回ってくれるという。一人旅より安全で、低価格で旅行できることは確かである。一度も足を踏み入れたことのない地域、例えば南米やアフリカ諸国などに行こうとしたらそういう団体旅行も意味があると思うし、初めての旅行なら特に安全性の面からも勧められるだろう。外国に住んでいた時、私も何度かそういったツアーに参加したこともある。 Read More →

今年は殊の外寒かった。というより天候の不順さが進んでいることを認識させられた、と言ったほうがいいかも知れない。友人は、最近いわゆる四季の感覚がなくなり、夏と冬だけになったように思う、と言っていた。冷暖房装置が完備されつつあるので、家の中ではかなり温度の調整が可能になってきたことも一つの理由かもしれない。「ここは暖かいですね、外は寒いですよ」という挨拶をよく聞くようになった。新聞には、この寒気は地球温暖化の影響である、北極の氷が大量に溶け始めており、偏西風が蛇行し、寒気が南下していることに影響されているというのだ、と書いてあった。寒いのが温暖化の現象というのは一見矛盾しているようだが、説明を聞くと納得出来る。そう言えば、シベリア地方の凍土が解け始めており、地表が顔を出し始めているところがあり、以前は凍土の中に埋もれていた動物の化石が掘り出され易くなってきた、という記事を読んだことがある。同じ温暖化の結果だろう。 Read More →

これから書くことは、個人的な問題で書くに値しないことだろうと思いますが、今になって直接感じさせられるようになり、私にとって重要な課題になって来たことを書かせていただきたいのです。話の中心は、昔から言われてきたように「世間様に顔向けが出来ない」ということの意味の理解と、「自分がいかに無能力であったか」という事実の自覚が遅すぎたことへの悔悟です。それならあと少しの人生をどう生きたらいいのか、という最期の難題に取り憑かれての困惑がそれに続いてやって来ているので、さあ、これからどうしたいいのか。そんなことを過去から引き続いてきた事実とこれからの生き様を考えたら「すみませんでした」と世間とそこで関係した人に、事あるごとに言い続けるより他に私には残されていないように思えてきたのです。太宰治は「生まれてきてすみません」と書いて自殺しました。自殺さえ出来ずに、その勇気さえなく、傲慢にずるずると生きて来てしまった私にできることは何か、まだ何かが残されているのか、誰か助けてくれる人がまだいるのだろうか、そんなことを、恥の上塗りの覚悟で書いてみたいのです。 Read More →

このところ寒波がやってきて、大雪をもたらした、という記事や映像が新聞やテレビに載った。東京に久し振りに20センチあまりの積雪があったからだが、日本海側の積雪地帯の人たちは、東京にも雪が降ったのか、20センチ位でなんでそんなに騒ぐのだろう、と感じた人は多くいたであろう。私もそう思った。
ただ、雪にはどこか人を日常生活から隔離させてしまうような、言って見れば非現実的な感覚をもたらすものがあるようだ。川端の小説『雪国』も雪がもたらす、周囲や通常持っている普通の意識さえ無化してしまうような感覚に多くを負っていることは確かだろう。私も子供の頃からの「雪の思い出」は多く、深く心に刻まれている経験も少なくない。雪にはどこか不思議な感覚を喚起する要素があるのだ。 Read More →

冬至を過ぎ今年も残り少なくなった。このところ文章を書くのが遅くなってきたし、纏まりがなく完結しなくなった。
今年の夏休みを過ぎてから、自分の考えがまとまらなくなったのである。歳のせいもあるがそれだけではなさそうだ。ブログの文章も休みがちになった。書くことがないわけではないが、まとまった文章にならないのである。 Read More →

今年は七月から九月半ばまで異常気象に見舞われ、それが社会に影響を及ぼしているような気がして、このところその変化に注意を払ってきた。私の個人的な直感のようなものだが、1990年頃から、大まかに言えば、二十一世紀を境に社会は大きな転換期を迎え始めたように思う。歴史の流れは結果的にしか認識できないが、このところその変化の兆候がはっきりしてきたことは間違いない。特に気象の変化は著しい。それに従うように世相も大きく変化しつつあるように感ぜられる。その変化に気を取られ、このところ自分の居場所について忘れがちになっていた。ブログも長いこと休んでいた。この夏の猛暑のせいもあるが、何か思想経路を遮断されていたようなところがあったのだと思われる。これから自然、特に地球全体に広がるこれまでにない気象現象の到来と歴史における新たな枠組みの再編成の時代を見つめていきたいと思う。ネットによる迅速な情報伝達による、世界の抽象的なグローバル化という自体に逆比例する形で、小さな民族の独立再編成としての退化するナショナリズムとでも言えそうな動きが始まったことは間違いない。そのような時代へと転換していく様子を注意深く見守っていきたい。実はそんな悠長なことを言っている余裕などないのだが、少なくとも現在歴史的な大転換期に突入したことははっきりと自覚しておかなければならない。これから、自然現象においても歴史の動向においても、今何が起きても不思議ではないほど逼迫した状況にあることを肝に銘じておきたい。 Read More →