「バベルの塔」の物語は、旧約聖書のでてくる物語で、内容的には人間の思いあがり、あるいは「傲慢さ」(ヒュブリス)を描いた物語であるがゆえに、世界の各地にそれに似たな内容の物語は流布されている。人間が人間の身分をわきまえずに、独りよがりになり神へのあるいは自然への反抗、また他人への思いやりを忘れ、その不遜故に神からの罰、あるいは自滅の道を歩むことの比喩として語られる物語である。
「旧約聖書」第11章はノアの洪水の後、全地がひとつの同じ言葉となってしまった不幸の物語である。シナルの土地に移り住んだ人々は、天にも届く塔を建て、民族が全地に散らばるのを免れようとした。神はそれを見て「民が一つで皆同じ言葉」であるのはよくない「彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」といい言葉を乱してお互い通じないようにし「彼らを全地のおもてに散らされた」のである。それ故地上には、多くの民族が存在し、その数だけの言語が多数存在しているのである。この物語は「なぜ地球上に多くの言葉が存在するのか、お互い簡単になんの苦もなく理解し合えるように一つの言葉であればいいのに」という一見まともな疑問に答えている物語だと解釈出来る。この物語は、現代の世界の状況を反映している物語で、その意味するところを真面目に反省する必要があるのではないか。

現代は、地球規模であらゆることを統一する規則や基準を作り、それに従うことを強制しつつある時代である。多様性を破棄し、統一性を重視する時代となってしまった。この状況を見ていると、全世界、というより現在世界を支配しようとしている列強は、まさにバベルの塔を建設しようとしたかのノア一族の再来のように見えてくる。それを遂行する手段として、言語も地域も多様なのに、全世界を一つの言語で統一する傾向が顕著に見え始め、それを世界に向かって迅速に一元化することを目指し、その手段をコンピューターの同一化する働きによる機能的統計に求めることになりつつある。さらに言えばコンピューターに対応させる言語は今のところ「英語」ということになっている。コンピューターによる全ての一元化現象と「英語帝国主義」は同根であり、二つは悪しき契約を結びつつある。この現象は真に危険な状況がやってくる兆候と言うべきである。その危険性の根拠は「多様性より統一性」が世界支配の原理であるという、錯覚である。その錯覚を見破ることが出来ず、世界がこぞって統一化や規格化を図ろうとしているところに危険があるのである。このままだと、近い将来、各国が英語、あるいはそれを模した言語でコンピューターを操りながら意思疎通を図るようになり、経済においても、いつでもどこでも通用する世界統一通貨を作り、世界すべてが統一原理で支配され、規格化された枠内で動いていくような状況がやってくるかもしれない。しかもそうすることが、世界の争いを無くし、平和が実現されるのではないかという錯覚がそこに付随している。陥り易い錯覚だが、こんな危険なことはない。「統一化・同一化」は「衰退」の別名であることを自覚すべきではないのか。すべてが統一され、人間の躍動感は薄れ、人間はロボット化し、挙げ句の果てには人間は「廃種」に成り下がることになろう。
単純化し比喩的に言えば、現代は、エネルギー問題の重要性が叫ばれているが、ほんとうに重要なのはエネルギーの動向ではなく、エントロピーの動向である。エネルギーがいくらあっても、エントロピーがゼロになったらエネルギーの存在価値はなくなり、世界は終わりなのである。まさにそれが世界の死ということになるのである。その比喩を、あらゆる分野において現在世界が向かっている方向に適用すればどうなるか自明である。今考えるべきことは、なぜ世界は多様な要素からできているのか、世界における同一性と差異性の意味を深く考えるべきなのである。例えば世界において、異なった言語間において、いくら意思疎通が煩瑣であリ、時には誤解が生ずることがあろうとも、言語の統一を図るより、言語の多様性を保持すべきなのである。そこが「バベルの塔」の物語の核心なのである。権力、暴力、規則を行使して秩序を守り、天にも届くバベルの塔>を建てようとしても、自然がそれを許さないだろう。自然の気まぐれを自然の脅威だと誤解し、それを制御するという人間の傲慢さは、まさに破滅への道行である。しかも人間の技術によって、すべての統一を図り、すべてを一つの色で塗り替えるような愚策は、まさに現代人の思い上がりである。そもそも自然は多彩多色であり、自然における秩序そのものが自然の遊びなのである。そこを理解するのは難しいが、人間にとって何がリアルであるかを考えれば、それは自ずとわかってくるはずである。そもそも自然は人間によって征服されるような存在ではないのである。にも関わらず、人間は「バベルの塔」を建てようとする。現代「バベルの塔」を建てようとする様相があらゆるところに現れている。
あらゆる場面での「統一」はリアルな存在においては不可能で、単に悪しき理念として存在するにすぎない。リアルな、今私達が生きている世界においては、欠陥や欠如をかかえつつも多様な存在に意味があるのである。本当の進歩とは、急ぎ足で先へ先へ進むことではなく、時には停止し空を眺めて一休みし、機に出会えば後退しながら「多様性を保持する」勇気である。
「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)

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