このところ寒波がやってきて、大雪をもたらした、という記事や映像が新聞やテレビに載った。東京に久し振りに20センチあまりの積雪があったからだが、日本海側の積雪地帯の人たちは、東京にも雪が降ったのか、20センチ位でなんでそんなに騒ぐのだろう、と感じた人は多くいたであろう。私もそう思った。
ただ、雪にはどこか人を日常生活から隔離させてしまうような、言って見れば非現実的な感覚をもたらすものがあるようだ。川端の小説『雪国』も雪がもたらす、周囲や通常持っている普通の意識さえ無化してしまうような感覚に多くを負っていることは確かだろう。私も子供の頃からの「雪の思い出」は多く、深く心に刻まれている経験も少なくない。雪にはどこか不思議な感覚を喚起する要素があるのだ。

私は甲斐の国の出身ですが、信州や越後ほどではないにしても、雪はよく降りました。最近は雪が少なくなったと聞いていますが、子供の頃は朝起きると、一晩であたり一面銀世界になっていた驚きを昨日のように思い出します。それに私の雪の記憶は母と結びついているものが多いように思います。雪の朝、早く起きて玄関先の雪掻きをしている母の着物の裾裏の赤が、雪の白さと相まって私の脳裏に焼きついています。その時、なぜ父は雪掻きをしないのだろう、と子供ながらに反感をもったこともその記憶とつながっています。私の母は93歳まで生きましたが、最後に会った正月も雪掻きをしていました。
雪にはどこか、日常の感覚を失わせ、意識を惑わし、現実感を無化させ、言って見れば、無意識的な次元に連れ戻すようなところがあります。しかし、それは不快な感じではありません。ドイツの片田舎の村はずれにあった小さな教会の墓地では、雪が積もり墓石も半分埋もれ、積雪はその先どこまでも広がる牧草地をも覆っていました。そのとき雪野原に吸い込まれるような気分になりました。その教会で音楽会があり、合唱団が聖歌を歌っていたのですが、その中にひときわ美しく見えた女性がおり、声も容姿も忘れがたい記憶がありますが、その姿が教会の窓から見える降る雪と無関係ではなかったように思います。友人と降る雪の中をゆっくりと車を走らせながら、今聞いてきた女性の歌声と姿を幻のごとく頭に浮かべながら帰ってきたのを覚えています。美しい雪の記憶の一つです。
小学生の頃、下校する途中に小さな橋があり、よくそこで雪が降り出し、降ってくる雪を仰いで見ていると、実際自分が重力を失い地上を離れて空中をどんどん上に登っていくような奇妙な感覚に襲われました。夢心地とはまさにこのような状態を言うのかも知れません。雪には計り知れない不可思議さがあることは疑えない事実のようです。実感もそれに伴っています。
北イタリアのラーゴ・マジオーレ湖からアルプスのシンプロン峠を越えて車を走らせたことがあります。9月半ばなのに途中から雪が舞いだし不安になりましたが、どうやら頂上まで辿り着き、ブリークという町の手前の旅籠に宿をとることにしました。宿の娘らしき女性がスイス訛りのドイツ語で「あなたが今年最後の客です。明日からこの峠は閉鎖されますから」と言いました。暖炉には薪の火が燃え、周りは樹木の匂いとやわらかい暖かさがありました。次の朝はやはり雪になっていました。それほどたくさん積もっていなかったので、私は雪の中をゆっくり慎重に下りました。もう何年前になるのでしょうか。
バッハの初期のカンタータに『天より雨ふり雪おちて』(BWV18)という曲があります。それは、復活節前第8日曜日に歌われる「天より雨ふり雪おちて帰らずとも、地を潤し、撒く者に種を与え、食らう者に糧を与えるようにと、地を豊かにし生命を生かしむ」という聖句から来ています。短いカンタータですが、最初の「シンフォニア」は屈指の名曲だと思っています。ヴァイオリンを使わずヴィオラの四声部とチェロを加えた通奏低音という小さな編成で奥深い曲想に合わせられています。聖句の内容を考えているからでしょう。雨や雪は天からの恵であり、地を潤してくれます。これは環境問題以前の事実です。雨や雪は自然と人間を結ぶ「橋」なのです。私の雪の思い出も結局そこに起因しているのかも知れません。
そんなことを走馬灯のように次々と思い出しながら、今回も雪の持つ不思議さを強く感じさせられました。

One Thought on “雪の思い出

  1. 宗像 眞次郎 on 2018年1月27日 at 1:40 PM said:

    雨とか雪というのは、独特の情緒がありますものね。晴れた空の青空も美しいけれど、晴天というのは、どこかひとを生産的活動へとせきたてるかのような生々しさがある。そこへいくと、雨や雪はひとを夢の世界、非現実的な空想の世界にいざなってくれるかのような優しさがある。
    特に雪の日、わたしは新潟に住んでいたことがありますが、石油ストーブの穏やかな熱が、外気の冷たさと好対照で、なんとも言えない心地よさを感じたものでした。
    雪がふると、雪だるまやかまくらをつくったり雪合戦をしたり、といった、昔からのあそびがいまも色褪せることなくひとを楽しませてくれる。
    雪だるまも、雪合戦の雪の玉も、いつのまにか溶けてなくなる。産業廃棄物のようになんらかの処理をする必要もない。思い出だけを残す。これは、無常というもののひとつの理想なのかも知れません。
    わたしの人生もそうでありたいな、と漠然と思う昨今です。

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