最近、「世代」という言葉の意味がよくわからないのに、それがしめす現実によって自分の思考や行動が動かせれてしまうことが多くなってきたなと強く感ずるようになった。しかも、それがかなりの速度と強度をもってやって来たからである。
私たちは「世代」という言葉をよく使う。例えば、世代が変わったのだ、とか「世代交代」というようなことをよく言う。そう言われるとなんとなく分かったような気になるが、これこれこういうことが起こったからそう言うのだと言うようにはっきりした基準があるわけではない。私だけがそう思っているのかも知れないが、何となく世代が変わったなあとか以前とどことなく違って来たよな、というようにその変化が確実なものとして認知されるわけではなくどこかか曖昧なところが残るのだが、実は自分の考え方や生活に大きく影響していることに気がついたのである。それに気がつくのは「以前と違って」本当に変わってきたと具体的に実感する時である。言葉としては曖昧で定義のような確実なものに従っているわけではないが、その差異の実感は自分では変えられない強さがある。そこにはおそらく個人差があるのに皆がそう考えて行動しているように感ぜられるところに「世代」という言葉がもたらす難しさがあるようだ。ただそこで感ずることに特質的なことは、以前自分が使っていた言葉や経験してきた事態とそれに伴う実感が周りの人たちに通用しなくなり、共有できなくなってきたきたと思わされることにあるようである。それに変更を強いられる、つまり自分からそう発想するのではなく、外から排除されるという感覚が伴うのである。俗に言う「自分の出る幕ではない」とか「自分の居場所がなくなってきた」といった感覚である。「引退を迫らる」ような感じなのだが、実際に他人から強制されるわけではなく、自分が自ずとそういう感じになってしまうのである。誰が悪いということはないし、自分だけに責任があるようにも思えないが、そこにはなにか寂寥感が伴う。そんなとき意識されるのが「世間」とか「世代」ということが意識されることは確かなようだ。
私が「世代」ということについて以前より意識的に強く感じだしたのは七十代近くになってからである。その意識がますます大きくなってくるように感じている。昔から六十歳になると「還暦」と言って、赤いちゃんちゃんこを着せられ、世代交代の意味をかなり客観的に意識させられたのである。その時期が最近個人的に曖昧になってきたことは確かではあるが、「世代」ということを強く感ずるようになったのは、自分の考えや意識が自分が今を生きている人達、俗に言う世間の人達とのずれが強く感ぜられるようになってきたからである。今ここで「世代」ということを殊更話題にしたのは、時が経つに連れて、何故そのような新しい事態が起こりそれを殊更「変化」として意識せざるをえないのかを少し考えて見たいからである。まず「世の中の移り変わり」を何故意識するのか、と考えてみよう。
この問題が浮上してきたのは、「それはお前が歳を取ったせいだよ」と非常に単純で常識的なことのようにも考えられるし、それなりに納得もいくのだが、その落差があまりにも大きくてこれからどうなるのだろうという不安と憂慮に襲われるからである。それに、その問題には「お前は今まで何をしてきたのか」という後悔を迫るようなところが付随してくる。それが厄介の原因でもあるような気がするのである。確かに、怠惰であったことは間違いないので「自業自得」と言うことになるのだが、もう遅いのか、という未練もまだ残っている。過ぎ去っことは取り戻せないこと、つまり時間は不可逆なものであることは「覆水盆に帰らず」という諺がが昔からよく言い聞かせてくれている。ということは、残された時間は短くても、良いことも悪しきこともすべて忘却してしまうように努力することだけが残されいるのだろうか。しかも、それは努力で勝ち取れるようなものではなさそうだ、だとすれば、もう手立てはないのだろうか。人生の終わりは、何もすることが無くなり、何かを「待つ」だけかも知れない。それではあまりにも悲しい。

One Thought on “「覆水盆に返らず」ー残された時間の悲しさ

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年10月19日 at 12:04 AM said:

    学生のころ、「時間」というものは連続しているのか切れているのか?ということをよく話題にするひとがいて、わたしはその意味がまったく解らなかったのですが、先生のこの文をお読みしてふとそのことが思い出されました。
    世のなかの変化というのは、若いひとであっても「ついて行けない」と思うひとが多いのではないかな?と思います。それでも若いうちは「自分がついていけてないだけ」=頑張れば追いつけるかもしれない、と思えますが、ある程度の年齢を重ね、体力も衰え、じぶんにはなじみのない用語が頻繁にじぶんより後輩のひとたちの口にのぼり、またそういうひとたちの言動が自分の常識・・・これまでまわりから教え込まれてきたこととまったく異なるものであるとき、強い疎外感に襲われ、「世代交代」というありきたりなワードがある種の残酷さを伴って迫ってくる。
    これは人類の歴史が始まってずっと繰り返されてきたことでしょう。
    自分の人生を縦軸、世間を横軸と考えれば、この縦横は平面上の交差ではなく三次元的なすれ違いがある、ということかも知れません。「時間は切れている」というのは、そういう側面を捉えたことばなのかも知れないな、と思います。
    そうであれば、わたしは世間に合わせることは止して、最低の勤めを果たしたうえで自分のやりたいことを目いっぱいやりつづけよう、そうしたら、もしかしたら、じぶんを中心にした新たな世間(狭い世間ですが)ができるかも知れない。これはさいこうの贅沢ではないか?そんな気がしてきました。

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