昨日節分だった。豆をまいた。掛け声を出してみたら「鬼は外、福は内」が先なのか、あるいはその逆なのか分からなくなった。調べてみると両方あるらしい。どちらでもいいのかなと思って、両方言ってみたら、どちらもそれなりによく響いた。特別なことにこだわらない限り、何事も二つあり、それが現実であり、普通のことなのかもしれないと思った。どちらでもいいのである。悪く言えば「優柔不断」になったとも言えるが、若い頃よく使っていた「絶対に・・・」という言葉使いに違和感が出てきたのである。何事に関しても絶対的より相対的な言葉のほうが現実に近く、使っていて気が楽になるのである。「どことなく」とか「なんとなく」と言った言葉もよく使うが、それは「それほどの意味もなく」という曖昧な表現で、それ故に親しみ深く感ぜられる言い方である。そのような何かに直接こだわらない言葉が使いやすくなってきた。歳を取ってきたからだろうか。「おかげさまで」と言う言葉は年寄りの言い方で、子どもが使う言葉ではないのも同じ理由からだろう。「どこからともなく」匂ってくる梅が香が路地に漂ってくる。まさに梅の季節だ。

私の住んでいるところは、五十年近く前に山の斜面に開発された住宅地である。高度成長期が始まる頃だ。以前からある旧街道に沿った村落の入り口と出口に当たるところの両方に、梅圃がある。今ちょうど梅が咲き始め、近くを通るといい香りがしてくる。昔旧街道だったところは、新しい自動車道路とは全く趣が異なる。景観ばかりではなく、古い匂いがするのだ。自動車がなかった頃、徒歩や荷車で往来した頃の雰囲気が今でもある。静かに咲く梅の花とほんのりと香ってくる匂いがそれによくに似あっているように思えた。今、春を待つ思いはあるが、何か寂しさもまだ残っている。梅はそんな季節に咲くのだ。そう言えば、私の祖父の俳号は梅枝であり、祖祖父のそれは梅久だったことを思い出した。私の郷里はここではないが、二人の句碑が並ぶ菩提寺の門前にも梅の枯木が何本かある。その前の道路を隔てて大きな材木屋があった。今は住宅が立ち並んでいる。私の記憶は現実の変化について行けない。それにしても、あの梅はもう咲き始めているのだろうか。
「やまざとは万歳遅し梅の花」「梅が香にのっと日の出る山路かな」両方とも芭蕉の晩年の句だが、後者は芭蕉51歳のときの句で最期の春の句だ。
こんな句を今思い出すのも、時間の流れのなせる技であり、過ぎ去った時間と現在の時間が同じ時間の相のなかで出会っているような気がするのである。私たちは、そんな時間の流れを「記憶の相」とか単純に「思い出す」などと言っているのかも知れない。ただ、思い出す記憶の中の風景はそのままま変わることはない。そんな時、時間の不思議さを感じてしまう。変わるのは現実であって、記憶ではないのだ。
最近の私のブログに書く文章は「言葉」に関するものが多くなってきた。読者の方からも、そういった意味の指摘をいただいた。その通りだと自分でも思う。ただ最近特に、なぜか言葉の使い方、あるいはなぜこのように言うのだろうといったことが気になって仕方がないのである。例えば「よろしくお願い致します」と言った言い方である。このような言い方は、誰でもが毎日のようによく使う言葉である。年賀状や寒中見舞いの文面の最期が、この言葉で結ばれていることが多い。また昨日、隣に引っ越してきた若い御夫婦が挨拶に来てくださり、「隣に越して来た・・・です。よろしくお願い致します」と言った。私は無意識に「こちらこそ、よろしくお願いいたします」とお答えしたように思う。
その後、この言い方を外国人だったらどう表現するのだろうか、と思ったが、適当な言葉が浮かばなかった。英語の辞書を引いても、この言い方にピッタリする表現は見つからず、ある辞書には、このような表現は英語にはない、と書いてあるものもあった。ドツ語でもフランス語でも似たようなものに違いない。実際その通りである。つまり「よろしくお願いいたします」という言い方は、やはり日本語的表現であり、その表現は日本の社会のあり方と関係しているということは、明白なことのように思われた。この言い方には何をお願いするかというはっきりした目的語がないから、曖昧のように聞こえるだけで、実際個別的な何かをお願いしているわけではないからのだから、ある意味で曖昧でいいのである。私たち日本人は、別にこれをお願いしたいわけではなく、なんとなく私たちに関係する漠然とした全体に対して、つまり関わり合う全てに対して、上手く行くようにしましょうと言った表現で、柔らかく素晴らしい表現だと思う。よく言われるように「日本語は曖昧」なのではない。婉曲に言っているだけである。婉曲と言うより、相手があまり気にしないように言うのだろうと思う。特別何をお願いするわけでもないのだから、私たち家族が隣に越してきた者ですといった顔見せの挨拶に来たということがわかればそれでいいのである。そのような表現が日本語には多い。日本の社会がそういった人間関係を認めているのだからそれでいいのである。ただ最近、外国人と関わり合う場面が増えてきたこともたしかだから、このままで全てが片付かなくなる、「誰が、何を、どうした」をはっきり言わなければならないことも出てくるだろう。その時はまたその時で、日本語はそれに適した表現を見つけるに違いない。日本語はどんな状況にも対応できる言語なのである。
最近大きな問題になっている学校での「いじめ」があるが、ここでも言葉がかかわっている。ある女性が「顔面凶器」と書いた紙を同級生の男の子から投げつけられ、しかもそれがひとりではなく大勢だったので大きなショックを受け、45歳になった今でもマスクをしないと外に出られない、と言う。以前は「くさい」「ぶさいく」「ださい」とか言うのがいじめの常套語だった。いまは「死ね」とか「顔面凶器」などという言葉になったのか驚きだった。こんな直接的な表現が、いじめ言葉になるということ自体が私には奇妙に思える。ここにも外国語の影響があるように思えて仕方がない。「顔面凶器』などと言われても「ああそうですか」と言い返し澄ましていられると思うのだが、そうでもないらしい。言葉はその都度、人間関係の変化とともに流行するからだ。いじめに関して言えば、今流行している言葉を使わないといじめにならないのである。おそらく私もその当時の言葉で言い合っていたに違いないのである。いじめという行為がむずかしいのは、いじめている方はいじめているとは思っておらず、逆にいじめられている方は必要以上に傷ついているのである。私自身の経験からしても、いじめられたことはよく覚えているが、いじめた方のことはあまり記憶に無いのである。私も友人たちにいじめを働いていたに違いないのである。私も上級生から「生意気だ」と言われかなりひどく殴られたことがある。中学二年生の頃のことだ。しかし今、あまり悪いことをされたという感じはない。おそらく言葉で言われる方がいつまでも心に残るのである。現在は直接言われるだけでなく「メール」のLINEやツイッターなどに書かれるのが、直接言われるより大きな苦痛を与えるいじめになっているらしい。この現象も言葉というものの奇妙な性格に由来しているといえる。「言葉の暴力」という言い方があるが、これは言葉は時には「行為」以上の力を持つ証拠である。言葉は難しく厄介なものである。それはまた同時に言葉が「安らぎや喜び」を与えてくれることの反語でもあるのだ。
「よろしくお願い致します」という言い方は、言葉の持つその両面を相対化し、快く共有出来る表現であり、日本語特有のものとしてこれからも使い続けていきたい言葉である。

One Thought on “節分、梅が咲く季節(付「よろしくお願い致します」)

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年2月8日 at 7:48 AM said:

    盛りだくさんな内容で、いろいろわたしも書きたくなってしまいます(笑)。
    ことばというのはふしぎなちからがある、というか、ことばの使い方によって、そのことばを使うひとの思考や、さらには行動まで方向づけがされると感じます。
    たとえば、「いじめ」ということばがある。この「いじめ」ということば自体にわたしは毒があるのを感じます。この言葉には、いじめられる側に屈辱を感じさせる・・・そこから目を背けたい、なかったことにしたい、と思わせる響きがある。いっぽういじめる側には、「たわむれごと」の行き過ぎと思わせる気楽さがある。だから問題は陰湿かつ複雑になる。
    わたしは、「いじめ」というコトバを追放して、「学校内密室犯罪」とでもよぶべきだと思います。「校内恐喝」「校内傷害」「校内名誉棄損」「校内監禁致傷」という具合に、きちんと類型化して対処するべきだと思います。統計もそういう切り口でつくるべきだと思います。呼称が変わるだけで対応は大きく違ってくるはずです。
    こういう主張を極論だ、と反対するひとはなんにんも知っていますが、わたしは「絶対に」間違っていない、と確信しています(笑)。
    この「絶対に」ということばですが、わたしは、あまり論理的な記述をする場面にはなじまない用語だな、と思います。論理的に明瞭なことを記述するのに「絶対に」などという副詞を使う必要はもともとないし、そこで使ってしまってはかえって読むひとは??な気持ちになることでしょう。
    むしろ、このことばは、「ぜひともそうであってほしい、そうに違いない、それ以外に考えられない」という強い思いの反映だと捉えたいです。
    そのような使われ方であれば、このことばが日本語のなかで残る意味もあるのではないでしょうか?
    「よろしくお願いします」というのはすばらしいことばであり、日本語の秀逸さのひとつの典型だと思います。英会話の先生に最初に教わったのですが、英語というのは基本的にいかに合理的に自己主張するか、という発想がベースになっているそうです。主語→動詞→目的語という並びからしてそうなっていると。日本語はそうではない。話している相手ないし周囲との関係性が円滑にいくことが主目的になるようなつくりになっている。だから頻繁に「主語」は省略される。動詞は一番最後に来る。主語の比重を限りなく軽くすることで、話し手が自然と一体化していくかのような穏やかで味わい深い会話ができる。
    「よろしくお願いします」ということばも、そこに何らの意思も込められていない、生活していくうえであなたと調和したい、という思いです、という静かな願いのような気持ちの表現であり、それに対して「こちらこそよろしくお願いします」と返すことで、こころの向く方向が同じであることを暗黙の内に共感しあえる。
    こういうことばが生きている限り、日本の社会は平穏であり続けることができるだろうと思います。
    (余談ですが、わたしはいわゆる「右寄り」の人間ですが、保守派の一部に根強い「自己責任」主義(=新保守主義)に対しては強い嫌悪感を持っています。西欧合理主義に幻惑されたかのようなそのての考え方は日本古来の美徳を破壊し、社会の安寧秩序を毒するものだと思います。)
    はなしはがらりと変わりますが、梅の花というのは独特の美しさを感じます。まだ寒い季節に、凛としたたたずまいで静かに花びらを開いている。「もうすこし我慢したら暖かい季節になりますよ」と優しく語りかけているかのようです。
    梅の花にどんちゃん騒ぎは似合わない。

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