裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛
どこの言葉にも、前後、左右、上下、内外、遠近、長短、あるいは善悪、美醜、貧富、聖俗、のように相反する事態が対になった言葉がよく使われる。数えればきりがないほどある。それらの言葉は確かによく対の形で表現され、ことさら考えることもなく無意識的によく使うが、その関係にはそれぞれ微妙なところがある。その中に「表裏」という対の言葉があるが、私はこの「表裏」という言葉、あるいはその言葉が指し示す事態に特殊に拘ってきたような気がする。そのきっかけになったのが、先に挙げた良寛の辞世の句である。

良寛の名前は以前から知っていた。子供の頃から「良寛さん」と呼ばれて、子供たちとかくれんぼをしていて夕方になり、子どもたちはみんな家に帰ってしまったのに、良寛さんはまだ子どもに見つからないようにずっと隠れていた、という逸話は誰も皆知っていた。父の書棚に『大愚良寛』とか『良寛坊物語』などという書物が並んでいたので、良寛という名前は小さい頃から馴染みのある名前であった。ただ、良寛が書いた俳句や短歌を読み始めたのは大学に入った頃からだった。さらに良寛和尚についての本を意図して読んだのは、大学を出て、就職もなく言ってみればぶらぶらと無為に過ごしていた頃である。かなりのめり込んで読んだ。そのとき、この辞世の句に出会ったのである。この句の意味は誰でも分かるが、その時、なぜ、はじめに裏をみせ、表を見せるのが後に来るのか、という単純な疑問が湧いた。しかしすぐに、それが逆だったら俳句にならないなとも思った。そのくらいの感覚は私にもあった。表が先で裏は後というのは固定観念であって、この句の意味ないしそのよさは、それが逆になっているところにあると思ったからである。紅葉が散るという自然現象には、表も裏もない、まさに表裏一体の関係なのだ、ということはなんとなくわかった。しかし、それだけではこの句は終わらない。
良寛は越後の国の出雲崎に生まれ、11歳のころ仏門に入り、22歳のとき國仙和尚に惹かれて備中玉島の円通寺で修行し、全国各地を行脚し38歳になって、越後に帰り、国上山を中心に住居を替え、44歳で五合庵に入る。59歳で五合庵を出て、乙子祠側の草庵に移る。70歳で貞心尼に出会う。最期の住処となった桐島村島崎の木村家の裏に在った能登屋で、貞心尼らに看取られて74歳で没している。生涯既存の寺に属さず、言ってみれば「遊行僧」のような身分だった。それ故か、良寛の足跡を細かく辿り伝記を書くのは結構難しいと研究者は言う。ただここで言えることは、良寛は世俗の人びとや子どもたちに慕われたことは確かで、奇行や癖も多く、それが逸話や伝説として親しまれ、それらの話が「全集」の中に作品と同格に載せられていることである。このことこそ、良寛の奇遇の体を表していると言えまいか。
良寛は漢詩や書にも秀でていて、とくにあの柔らかい独特の書体は希なる趣があり、絶後であると書道家は言う。書かれた内容は漢詩が多いが、「いろは」「一 二 三」であったり、子どもにたのまれて、凧に書いた「天上大風」など親しみあるものも多く、書に通じていない私たちにも、良寛のやさしい面目を伝えているように感ぜられる。
私が良寛に惹かれるのは、その日暮らしの托鉢僧であるのに、哀しみはあっても暗さはない「遊行僧」のような生き方であり、仏の教えに忠実でありながら、「よのなかは とてもかくてもおなじこと みやまもわらやも はてしなければ」「歌よまむ手毬もつかむ野にも出む 心一つを定めかねつも」「てぬぐひでとしをかくすや ぼんおどり」などの表現に見られる自然さ、それと同時そこに現れる、あやふやな心の動き、あいまいな態度決定を、まさに表裏の「ずれ」を意識し、表現しているところである。そこに良寛の暖かさと悲しみがあったように思えるからである。ただここで言う「ずれ」とは、一致しなければいけないのに「ずれている」というような否定的意味ではない。幾何学で言う「合同」や「相似」のような規定された関係ではない。と言って「交差」でも「平行」でも「ねじれ」でもない。静止した位置関係ではなく、ある種の動きを含んだ、心の「まよひ」のような意味合いに似ていると言っておきたい。
先の句は、よく良寛の辞世の句と言われている。しかしこの句は良寛が書き留めたものではなく、良寛の最期の看病をした貞心尼が「、、、いかにせん、とてもかくても遠からず かくれさせたまふらめと思ふに いとかなしくて」読んだ歌「生き死の界はなれて住む身にも さらぬわかれのあるぞ悲しき」に答えて「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」と返した言葉であり、貞心尼が書きとどめた『蓮の露』という良寛最初の歌集の中に収められた句なのである。しかも、その句が最後の言葉ではなく、貞心尼が「くるに似てかへるに似たりおきつなみ」と私(貞心尼)が「かく申したりければ取りあへず」良寛は「あきらかりけり きみがことのは」と言ったと書いてある。ということは、この言葉が良寛が最期に吐いたつぶやきのような言葉であったということになる。ただ整った俳句としては先の句が辞世の句と言っても間違いではなかろう。重要なのは、この句が貞心尼の歌に答えた句であるということである。
先にも記したようにその句が「裏を見せ表を見せて」と表裏が逆になっているのがなんとも奥ゆかしく、さらに言えば、落ち葉が散るという現象、自然の流れには表も裏もない、もっと言えば、同じもみじの葉が両方の面を見せながら散る、つまり「散る」ということの時間的流れを、つまり裏と表の時間差を、その「ずれ」を生死に比して歌っていると考えてもいい。なぜなら、貞心尼の歌の返しになっている句だからである。そこを見逃してはならないだろう。さらには、自分を紅葉の葉にたとえ、自分も裏も面もすべてきみに見せて散っていくのだ、という良寛の貞心尼への思ひが込められている句なのではなかろうか、とさえ思えてくる。私にはそう思えて仕方がない。ただ普通に読めば「もみじ葉が裏を見せ表を見せながら散っていく」という自然詠でいいのだし、それで十分なのだが、貞心尼が綴った「蓮の露」を読むと、良寛の最後の言葉が「きみが言っていることはそのとうリだ=あきらかりけりきみがことのは」となると、貞心尼の誘ひもあってか、その時間的な「ずれ」をも「遊」として共有したいという良寛の願いが私には伝わってくるのである。これは下衆の思い違いなのだろうか。
貞心尼が「そのままに なほたへしのべ今さらに しばしのゆめをいとふなよ君」と詠んだのに対してすぐには答えなかったが、病気になってしまったとは言え「梓弓春になりなば草の庵を とくとひてまし あひたきものを」と良寛は返している。その直後に先きの句のやり取りがあるのである。病気が悪化したのかもしれない。そうなればなおのこと「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」の句に込められた意味の深さが増してくるように思える。
貞心尼と最初にであったときに良寛は
「またも来よ 柴の庵をいとわずば 薄尾花の露を分けわけ」
とその思ひを歌にしている。となれば最期の別れは言わずもがなである。辞世の句はそういった意味でも貞心尼との別れの言葉だったと言っても、解釈としても許されるように思えてくるのである。さらに言えば良寛の「一路とあいまい」が重さなっていた74年の生涯のすべてが、この句のなかに表れている言っていいのではないだろうか。そう読みたくなってくる。良寛と貞心尼との歌のやり取りである『蓮の露』を読むと、そこには「表裏一体」の思ひと「表裏のずれ」の思ひが、それぞれの機会にそれぞれの言葉で歌われている。その応答には微妙な感情の揺れもあるが、それらの歌を読む感慨は大きい。まさに二人の思ひは「裏を見せ表を見せて」良寛の死と共に散って行ったのである。またそこで自分ならどうするか、という自問がわいてくるが、それはやはり散る時が来なければ分からないのだろうか。

2 Thoughts on “表と裏、さらには、その「ずれ」

  1. 緒方宏司 on 2016年11月29日 at 4:10 PM said:

    良寛の辞世の句は、色々説はあるものの「散る桜 残る桜も 散る桜」と私は思っていました。子どもっぽく世間をちょっと揶揄したようなこの句が良寛の実生活、生きざまにぴったりの辞世だと感じ入っていました。おれは今から死んでいくけど、生きてるあんたたちも早晩あの世に行くとですたい。人は生まれたら「寿命」という「余命」を宣告されているんだよとブッダの教えに通じるような句だとおもっていました。
    そう思いつつこのブログを読んでいたら、なにかしら関連あるような言葉が出ています。
      良寛   「よのなかは とてもかくてもおなじこと・・・」
      貞心尼  「とてもかくても遠からず・・・」(良寛の死を言ってるのだが)
    しかし、「裏を見せ表を見せて散る紅葉」の句を見、その時の状況を知ると「散る桜・・・」は「裏を見せ・・・」の後には来ないことになります。
    最期の最期に貞心尼に対して自分の思いと感謝を吐露したものであろうと思われるこの句はすがしさを感じます。ただ俗人の私だったら、
     「表見せ 裏をも見せて 散る紅葉」と、したでしょう。
     人には表の部分(タテマエ、いい人)見せていたけど、あなたにだけは裏の部分(他人にはたやすく見せたくないありのままの人格)までも知っていただきましたと。
    これで良寛に目を向けるきっかけになりそうです。

  2. 宗像 眞次郎 on 2016年12月1日 at 11:40 PM said:

    「裏を見せ表を見せて散る紅葉」という句、詠まれた状況も含めて初めて知りましたが、一度聞いたら忘れられないインパクトを感じます。
    ふと思ったのですが、これを逆にして、表を先にしたら、音楽に例えたらベートーヴェン的、逆にしないでこのままならモーツァルト的、という感じがしました。
    そういう例えは不適切だと自分でも思うのですが、「表」を先に出すと説明的になるんですよね。ああ、なるほど、そうだよね、わかる、というふうに、読んだひとはすんなり納得できる。これは、「運命はこのように扉を叩く」とか「これが生涯をかけて求め続けてきた歓喜が世界を救うメッセージの旋律です」といった口上が可能なベートーヴェンの音楽に通じるものを感じます。
    モーツァルトの音楽に関しては、それを体験したことの意味合いは表現できても、音楽じたいをことばで説明するのはたいへんむつかしい。不可能と言った方が正しいかもしれない。むりに説明しても「とってつけた」感ありありで鼻白んでしまう。
    それでも、かれの音楽じたいには有無を言わさぬ生命感が溢れている。
    さきの良寛さんの句も、似たようなものを感じます。
    「裏を見せ表を見せて・・・」このことばがなにを表現しようとしているのか、皆目見当がつかない。「わかった」という気分には到底なれない。でも、妙にこころに残る。ある日、なにかのきっかけで、良寛さんがこのことばに込めた心情に共感できる日がきっとくる、そんな期待を持ってしまう。
    そんな、理解や説明を拒みながらもひとのこころにしっかりと根付く・・・そんなところはモーツァルトの音楽に通じるのかな?・・・・そんな感想を持ちました。

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