私が小学校6年生の時だったと思う。私の記憶はいつも不確かだが、夏休みが終わったころだった。先生が、ある一人の生徒を皆の前で紹介した。女の子だった。先生は、おそらく、私たち生徒に名前を言ったはずだが、その子の名前は全く記憶にない。ただその子が小さな赤ちゃんを背負っていたことは、鮮明に覚えている。いわゆる「お子守さん」だったのである。その子はいつも教室の後ろ、しかも後ろのガラスがはめてある引き戸の前に立っていた。その引き戸を開けると廊下になる。学習机も椅子もあったはずだが、その子はいつも立っていた記憶しかない。座っているところを見たことがないのである。おそらく身体をいつも動かし、子供をあやしていたのだろうと思う。その子が背負っていた子供が泣いたという記憶もない。泣きかけたら教室から廊下に出ていったのだろう。そういう、そのような約束だったのかも知れない。
どうした訳か先生は、授業中にその子と話しもしなかったし、何も教えなかった。その子が教科書を持っていたかどうかさえ定かではない。私が今考えて不思議に思うのは、私たちはその子と全く話をしなかったし、うわささえしなかったことである。私たちの仲間は、その子について何も知らなかったこともあろうが、その子は、普通の友達とは違った、特別な存在だと、皆同様、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。なぜこのクラスに来るようになったのかも知る由もなかった。どこの部落のどのような家に住んでいたのかも、誰も知らなかったと思う。いつ登校しいつ下校するのかもわからなかった。今考えると、おそらく学校の近くの部落に住んでいたのであろうことは想像できる。そんなに遠くから歩いて学校に来ていたとは考えられないからである。当然、服装も他の子供たちとことなり、赤みがかった縞模様の着物をきて子供を背負い、その上に青い色の袢纏のようなものをはおっていたので、そもそも私たちと同じ教室の生徒であるという意識がなかったのかも知れない。それに、教室にいるのは午前中の2時間余りだったので、接する機会も少なかったのである。子供たちは、その子を名前ではなく、「お子守さん」とだけ呼んでいたような気もするが、はっきりした記憶があるわけではない。彼女が教室にいるとき、他の生徒が後ろを向いて彼女を特別な目で見たり観察するようなことはなかったと思う。関心がなかったのである。そこが不思議と言えば不思議なことであるが、私も同じだった。個人的に話した記憶はないし、特別彼女に興味があったわけでもない。積極的に話をしなければならない理由がなかったのである。そもそも、どんな顔をしていたか全く覚えていない。面長の顔に長い髪をし、背丈もそのクラスの普通の生徒より高かった記憶だけがある。年齢も私たちより2、3歳ほど年上だったのかもしれない。それも、今から考えればのことである。
彼女の記憶と言えばただ、子供をおんぶしていたこと、着物を着ていたことぐらいである。他の子供たちに比べて貧しいという感じはなかった。その当時、お子守さんは貧しい、という固定観念があったわけではないから、後に獲得した知識が、そのような感じを追想的に喚起させるのかも知れない。
いま、小学6年生のクラスにいたかの「お子守さん」が重要な人物になってきたか不思議であるが、そもそもリアルな関係のない人物、言ってみれば、私のこれまでの生活史のなかで、リアルに重要な場所を持たない人物こそ、アイデアルな人物となり得る可能性を持っているのだ。不可思議な転倒が起こるのである。この事実は、人間にとって非常に重要なことではないのか。このごろ、古い記憶をたどりながらその重要性に気付き始めたのである。この、アイデアルな人物こそ「リアル」な人物ではないのか。普通、リアルな人物とは、親兄弟、友人知人、先生、先輩後輩のように直接かかわりがある、あるいはあった人物のことを言っている。しかしその関係意識は時間とともに希薄になる。記憶の中に埋没していく。不思議なことだが、記憶のなかからリアルな関係になかった人物が、ある遠い憧憬となって思いだされてくることがある。その時その人物は、まさにリアルな存在ではないのか。そのような人物を「忘れ得ぬ人」と呼ぶのであろう。あのお子守さんは、普通言われる愛憎感情はなく、全く忘れてしまうことのできる関心なき存在であり、どう考えても私にとってリアルな存在だったとは言い難い。しかし、実でも虚でもない、ただその無関係さゆえに「忘れ得ぬ人」になり得たという意味で「リアル」なのではなかろうか。なぜなら、今の私にとって、かのお子守さんは、決して私を裏切ることのない、まさに関係のない女性として、ある種のあこがれをもって存在しているからである。憧憬とは、実の関係がなく、忘れ去ることが許される存在の別名ではなかろうか。存在は忘れ去ることが許されると感じられた時点で憧憬となるのだ。しかもその憧憬こそリアルであると言うべきであろう。
長い時間の経過の中で、忘れ去った人物は無数にいる。しかし、だからと言って忘れ去ってもいいということにはならない。ただ忘れているだけである。かのお子守さんは、忘れ去っても何の負荷をも感ぜず、責められることもない人物として、忘れ去ることが出来ないのである。またもう少ししたら忘れてしまうかも知れない。しかし、忘れてしまうには時間がもう足りない気がする。
ゲーテのいう「永遠に女性的なるもの」とはリアルでないこと、関係のないとによってリアルであるような女性に与えられた名前であり、リアルさを脱した憧憬としての女性に変化した存在なではなかろうか。「忘れ得ぬ女性」とは、そのような「可能なる女性」としてもっとも「リアル」であり、救済の源泉としての存在になった女性であり、現に忘れられない存在なのである。「永遠に女性的なるもの」とはこのお子守さんの存在の仕方のように思えてくる。
そのお子守さんは、三、四ヵ月して学校に来なくなってしまった。その時は、その子がいなくなっても、どうしたのだろうとも思わなかった。先生も何も言わなかった。大きな出来事ではなかったのだ。しかし今考えると、なぜ私は、あるいは私たちはそのお子守さんに関心を示さなかったのだろうかと思う。私以外に関心を示していた子供たちはいたかも知れない。しかし、大きな話題にはならなかったことは確かだ。やはり皆それほどの関心がなかったのだろうと思う。それにしても、今になってそのお子守さんのことが気になり始めたのだろう。私に、そのお子守さんを忘れ去る時間が無くなってしまったからかも知れないし、私の中で、無関係な存在だったそのお子守さんの存在が、精神分析で言う、想像界から無意識に近い現実界へと接近してきたのだろうか。
共感を覚えます。その「お子守さん」についてはなにもわからない。どんなひとで、どういう経緯でそこでそのようなことをしているのか皆目見当がつかない。それを知らなくても「困らない」。
これはひょっとしたら、「知ってしまったら困る」ということなのかも知れないな、と思いました。じぶんの知らない世界、知らないところで動いている世の中、・・・それを知ってしまうことで何十年もかけて身にしみついた「常識」が土台から崩れてしまうかもしれない。このことに対する漠然としたおののきの感覚を、「お子守さん」の存在が無意識に目覚めさせているのかな・・・そんな気もします。これはあくまで「わたしだったら」ということですが。