「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に」
ー立原道造『のちのおもひに』よりー
先日、長野県伊那市に住む高校生の頃の同級生夫妻と、上田市にある「無言館」とその前身である「信濃デッサン館」に行った。無言館に一緒に行こうと以前から話し合っていたが、なかなか果たせなかった。久しぶりの再会だった。戦没者画学生の作品や遺品を集めたその美術館は上田市の西北のかなり離れた山の中の塩田平と呼ばれる丘陵地帯にあり、六月末の緑濃き森に囲まれて静かに建っていた。梅雨の合間の明るい光が、装飾の全くないセメントの建物をやわらかく照らしていた。正面の小さな細い入口の上に、
戦没画学生慰霊美術館
無言館
という文字が刻まれていた。「無言館」という文字だけが影のようにくっきりと見えている。中に入ると何かが起きそうな予感がする建物である。写真や本で見たり読んだりしてその概要は分かっているつもりだったが、いざその建物の前に立つと、全く異なった感慨が湧いて来るものだ。その美術館についての感想はまた機会を見て書こうと思う。

今日書こうと思うのは、現今頓に失われていく日本の自然景観についてである。今年は戦後七十年というが、私はここ数年、敗戦は昭和20年(1945年)8月15日ではなく、今頃になってやはり戦争に負けたのだという意識がはっきりしてきたような気がする。そういった意識を感ずるのは、既に何度か書いたこともあるが言語、特にマスコミが意図的に作り上げる日本語の変化、いや言語感覚の品格の低下である。もう一つは、周りの風景と都市の景観の俗悪化である。もちろんそれには、道を歩いたり、バスに乗ったりする人間の行動や動作も含まれる。その理由を考えてみると、私見によれば、近代の人間生活のありようを根本的に変えた技術革命とでも言うべき出来事である、自動車とPC(携帯電話やスマートフォンはその延長)の発明と普及によるところが大であると思う。もちろんこれまでにも様々な技術による生活の変化はあった。しかし、その二つは生活の環境と意識を根本的なところで変化をもたらしたと言えるように思う。その二つが他の技術革命と異なるところは、要約して言えば、個人という意識と行動の自由の拡大である。悪く言えば、自分の好き勝手な行動が取れるということであり、我欲の増大を促したことである。さらに言えば、それらがもたらすものを「よし」として肯定する、われわれ現代人の意識そのものが実は問題なのだが、しかもその判断を即座に要求され、反省する(考える)時間が与えられないということである。しかも、その二つの技術がわれわれにもたらした歴史的に新しい意識は、個人の自由を絶対の権利として確保するために、他人との関係と外界(=自然)との関係を疎かにし、その結果それまで守ってきた親密な関係を壊滅的に破壊しているのである。そうなると、過去の歴史のなかで積み上げてきた人間の知識や知恵を無効にしてしまっていることになるのだ。その事実を意識し忘れてはならないだろう。自意識が我欲となり、親しい間柄であったを村民や町民を顧みず、それまでお互いが結束し大切にし守ってきた場所である山林や田畑さえも経済的な行為の物的対象と見做すようになってしまったているからである。そこではもうそこに住む人々から「ふるさとの山河」という意識も消えてしまっている。そんな光景だけが残されているように見える。
ここでは今回特に感じさせられた身近な例をあげておこう。私が高校生の頃訪れた、千曲川や佐久地方、天竜川や諏訪湖畔に以前の姿は既になく、甲州街道や中山道は高速道路やバイパスによってずたずたに切断され、山越えの峠はトンネルや自動車道による近道によってその景観と意味は失われてしまっていた。千曲川の土手に流れたであろう「歌哀し佐久の草笛」(島崎藤村)はもはや聞こえず、岡谷の製糸工場の女工になるため徒歩で越えた「野麦峠」は忘れ去られ、信濃追分近くの「山の麓のさびしい村」(立原道造)は既になくなっていた、ということである。旧街道に沿っていた宿場町の佇まいは、街の外に作られた広い自動車道の両側に立ち並ぶ大型商業施設のチェーン店やガソリンスタンドに道を譲ってしまったのか、人影は少なく寂しい街道になってしまっていた。歴史的な景観が消えて行き、野原は駐車場に様変わりし、自然と生活が離別してしまった地方におけるこのような変化を、経済的発展の結果とか地方創生への足がかりなどと暢気に言っていていいのだろうか。私はこのような変化を強いられた事こそが実は七十年前に終結した戦争の後遺症であり、時間が経つにに連れ、その後遺症の意味がはっきりしてきたように思えて仕方がない。このような変化こそが敗戦の実の意味であり、その結果であることをはっきりと自覚したい。
私には「無言館」に収められた戦没画学生の残した絵や遺品は、戦争の残酷さや残された者の悲しみを伝えているといよりは、画学生たちが夢にまで見、思い残してきたふるさとの山河が、村や峠や街道が失われてしまった本当の意味をわれわれに自覚するように促しているように思えて仕方がなかった。やはり戦争に負けたのだ、ということ。その結果かけがえのない自然と私たちを育んできた言葉を失ってしまったのだ。この代償はあまりにも大きい。大きすぎる。画学生達の思いが、こんな形で壊されてしまったことをとことん反省すべきではなかろうか。それがせめてもの死んでいった画学生への償いであり、無言館を見る意味であるように思える。

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