一年は十二ケ月だが、月の代わり目に大きな意味があるのは一月と四月だろう。日本の暦に馴染んできた人々にはそう感ぜられる。以前は3月25日卒業式、4月1日入学式というのが普通であった。最近はそれぞれの事情で、少しずつ変わってきている。そもそも「季節」という概念は自然の変化と人間の営む行事と一体になっているものである。それは日本だけでなく、外国での それぞれの地域での異なった自然の気候と当の社会の営みが連結しているところはどこでも同じである。ただ、日本人はその移り変わる季節の推移に特別な関心を示してきた。だだ最近地球温暖化とかの影響で季節の移り変わりに変化が現れてきたているようだ。これからどのように変化していくか、見守っていかなければならない。しかし、これまでは誰しもが少なくとも季節に順応して生きて来たのに対して、季節に逆らってまで生き延びようとする傾向が現今強くなってきたことは疑いない。それがいいことなのか、あるいは人間存在の宿命のようなものか、私には判断がつきかねている。そんな時思い出させるのは夭折した人たちのことである。短い時間ではあっても、夭折した人たちは生きた時代を自覚的に反省する暇もなく感覚的に体験し、それ故にその時代がもたらしているものを、若き感性でうまく作品に結晶させているからである。幸運というより外にない。不幸が不幸であることによってのみ生ずる「幸い」もあるのだ。長く生きたらそうは行かない。時代の変化を比較し価値判断を強いられ、結局何も出来ずに時間が過ぎて行き、自己嫌悪にさえ陥ることがあるからである。

今、先回の樋口一葉と同じ24歳で亡くなった詩人立原道造のことを思い出している。私が高校生だった頃、3−4人集まって詩集を作っていた。まだその頃はガリ版印刷で、刷ったのは20部くらいだったろうか、親しい友人たちに配っていた。私たちの高校は進学校だったこともあって、受験勉強なるものはあったが、いわゆる学習塾なるものはほとんどなかった。大学に行かない旧友も数多くいた。まだのんびりしていた時代だった。夏休みには、長野県佐久地方では島崎藤村の歌った「千曲川」の流れや「小諸」の町、堀辰雄と立原道造のいた信濃追分では「浅間山」の火山の煙を見に出かけて行った。「暮れゆけば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、、、」(藤村)「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に、、、」(立原)のような言葉に惹かれて出かけていったのである。50年以上前のことだ。戦後の混乱を経てはいても、まだ高度成長期に入る前の、戦前の感受性や価値観がまだ残っていた時代だったのだと思う。時代感覚というものは、その時代の最中に即座に起こるものではなく、その前の時代が後に残した痕跡であり残滓でもあるのだ。
今、立原道造のことを思うとき、かれが若き頃から書いた叙情的な詩や、自由な建築の設計、折に触れて描いたパステル画などを見ていると、後ろから戦争の足音が徐々に背後に迫ってきていた昭和初期の短い幸福な時代の作品であることが分かる。昭和も10年代に入ってからその足音がさらに大きくなり、かの太平洋戦争にまで発展していくとは、おそらく立原は思いもしなかっただろう。立原道造は、太平洋戦争が勃発する二年前の1939(昭和14)年3月に永眠している。立原の詩的世界は、この「特殊な時代性」抜きには考えられないと思う。
夭折した人に限りない哀切の情とある種のあこがれを感じてしまうのは、その人の若き非凡な才能が作品に表現されていることもさる事ながら、短く生きた「時代」にその作品が宿命的に負わされていることの特殊な意味と姿である。年号や時間は物理的に過ぎ去るが、いわゆる「時代性」という何かは過ぎ去らない。その時代性を担っているのが詩や絵画や音楽であり、それを創作した才ある芸術家たちの痕跡である。特に立原道造の短い生涯のなかで表現された「幸運な時代性」は、明治以降、平成の今日までの150年あまりの歴史のなかでも稀有な現象であったように思われてくる。

林檎の木に 赤い実の
熟れてゐるのを 私は見た
高い高い空に 鳶が飛び
雲がながれるのを 私は見た
太陽が 樹木のあひだをてらしてゐた
そして 林の中で 一日中
私は うたをうたってゐた
<ああ 私は生きられる
私は生きられる・・・・
私は よい時をえらんだ>
こんな詩を真面目に唄える時代が、他にあっただろうか。

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