長年愛用してきた置時計が止まってしまった。1860年製の、重い真鍮製の置時計のコピーでクオーツ時計である。時計屋にもっていったが、修理不可能とのことだった。形も色も気に入っていたものだけに残念である。クオーツはねじまきする必要がなく、正確で便利だが、寿命が短く、壊れたら終わりだ。時計というものが持つ本来的性格を欠いているのではないかとさえ思う。クオーツ時計の壊れ方は何か不自然だ。それはどこにあるのだろう。
私がはじめて腕時計を買ってもらったのは、大学入学のときだ。まだクオーツ時計ではなく、リーズで巻く時計だった。30年以上使っていたが、壊れてしまい修理に出した覚えはない。それほど高価なものではなかったのだが、初めて買ってもらった時計だけに捨てることができずに、今でも箪笥の引き出しの奥のどこかに眠っている。長針も短針もそのままで少しさびかかっているが時が止まったようにそのままだ。動かなくなった時計、それは記憶の置物でしかない。「大きな古時計」という歌も、百年前おじいさんが生まれた朝に買ってきた時計だが「今はもう動かない、その時計、、、」とおじいさんの思い出と結びついている。止まった時計、何かさびしい。止まった私のクオーツの置時計も、静かに眺めているとどこかさびしげに見えてくる。クオーツ時計の不自然さが、止まることによって気にしないでも済むようになるのかも知れない。
時計は、日時計が最初だといわれるが、その歴史は長くさまざまな時計が作られてきた。しかも時計ほど大切にされ長く関心を持ち続けられてきた道具も少ない。そもそも時間という観念は自然の内に存在しているものではなく人間が発見したものであり、時間の観念は人間の死と深くかかわっているがゆえに、それを計る時計なる道具も特殊な意味合いを持つのだと思う。死の意味の自覚と時間という観念の発見は同時であり、その時点で動物としての人間は特殊な存在になったことは間違いない。その点から考えて、日時計から原子時計あるいは電波時計にその姿は変わっても、おそらく時計の意味自体は変わらないだろう。
興味ある話がある。独立時計師という、自分で時計のすべてを作り組み立てる職業人がいる。いまでも、その細かく正確に時を刻むメカニックにこだわり、時計を作り続けている人たちだ。スイスのジュネーヴ近郊に多く住んでいるという。彼らの祖先は、16世紀半ば宗教戦争(三十年戦争)が熾烈をきわめたときに、逃げてきたプロテスタントの人たちだという。彼らが何故時間にこだわり、時計を作り始めたのか。これは推測でしかないが、おそらく、神への永遠の信仰に反して、はかない個人としての人間という自覚が芽生え、その終わりに想定される自己の死をどうにかして相対的に遅延させ、その時刻を前もって計りたかったのではあるまいか。その実行はつらい経験だが、強要され続ける人間の宿命のようにも思える。
止まった置時計を眺めながら、自然の中には運動や流れはあるが、いわゆる時刻とか時間というものは人間の発明品であると強く確信した。この止まってしまった置時計をそのままにしておこうと思う。どうしたわけか、4時31分を指して止まっている。偶然だが、長針と短針が美しい角度をつくっているように思えてくるから不思議だ。
人間は一生、時刻や時間という人間が自分で作りだした観念に支配され、その亡霊に追われながら毎日を生きているような気がしてならない。