「路地裏」である条件は、大勢の人で賑あわない静かな場所であること。時間が他の場所よりゆっくりと流れるように感じられることの二つである。もう一つ付け加えるとすれば、自分の知らないものが隠されており、ある種の不安を感じてしまうと同時に、これはどこかで出会ったことがあるようにも思える既知性とそれへの懐かしさを同時に感じてしまうような場所である。
「未知」と「既知」は相互に交換が可能な奇妙な事態である。その構造を示してくれたのは、かのフロイトである。今「不気味さ、あるいは恐怖感を伴って感じられる事態」は、実は過去において「快よさや親しみを感じていたもの」が一度抑圧されて再び戻ってきた状態である、とフロイトは言うのだ。もちろんその感情の原因が過去のほうにあることは自明である。「いまここ」で現実に感じている感情は、「いつかどかかで」感じた過去における感情に支配されている、ということである。いわゆる感情というものはいつも両義的なものである理由はそこにある。そういった意味では「未知と既知」「親しみと疎遠」「安心と恐怖」の関係を、またその反転の構造が現実化する可能性を与えてくれる場所が「路地裏」と名付けられていい。「路地裏を歩く」とは、その感情の往復運動を経験することである。路地裏は特別の場所である必要はないし、路地裏はどこにでも存在する。一つ条件があるとすれば、「いつかどこかで」こんな場所に出会ったことがあるという既知感が未知の場所で感じられることであろう。とすれば、子供でも老人でも、人間は過去に戻りたがっている存在ではないのか。その願望は普通時には隠されているだけではないのか。そのことからしてまた、未来とは、未知の別名でもないし、未来という独立した時間帯でもない。未来とは過去を反復する可能性の別名なのである。それゆえ「根源の近くに住む者は、その場を去りがたい」(ヘルダーリン)のである。この時間構造こそ、人間固有の経験の様相を可能にしている当事者である。
ただしもう一つ重要なことがある。「路地裏」に行きつくには「街角を曲がる」必要があるということである。つまり通常の日常的時空間を「切断」する必要があるということである。それが「街角を曲がる」ということなのである。街角を曲がらないと「路地裏」を発見することはないということだ。曲がるために「動機」や「目的」が必ずしも必要なわけではない。偶然でもいいのである。まず曲がってみることだ。何か面白いことが待っていることは間違いない。楽しいではないか。