「路地裏」という言葉には、独特の響きがある。また「路地裏」は比喩的な意味や趣を表現し、伝えてくれる言葉でもある。私はどちらかと言えば「路地裏」を記憶や経験の比喩的な意味や表象を踏まえて使っている。意識的というよりはどこか無意識的な何かが働いているようにさえ思える。「路地裏」という言葉には、表面に現れない何かを隠し、自分にとって不可思議なものに出会う入り口や場所であるようなものを自分自身に言い聞かせるような言葉である。また路地裏は、どこの街、どこの村に行っても出会えるような場所であると同時に、他方非常に具体的で経験可能な場所でもある。「路地裏」に関して一つだけはっきりしていることは、一度も出会ったことのない未知なるものが、既に自分の過去において経験したかのような錯覚を伴うことである。それゆえ、行ったこともない外国や見知らぬ土地でも「路地裏」に出会うことがあり得るのである。

 私は、子供時代、小・中・高を何の変哲もない農村で育った。農家の人は、最初のころは二毛作で麦も植えていたが、途中から麦畑はなくなり、冬から春にかけての田んぼは一面赤いれんげ草におうわれ、遠くにはまだ白く雪をかぶった南アルプスが見え、五月ごろになると比較的低い湿地帯には、緑色の葦が生え、よしきりの甲高い鳴き声が聞こえ、背の高くなった葦に作られたよしきりの巣には、どこにもないような美しい青色の卵が何個か生んであったりした。この青色が、いわゆるアールヌーヴォーの作家たちが、半透明のガラスなどに使った青色に似ていると感じたのはずっと後のことだ。このような風景も「路地裏」の感覚と表裏の感覚として、私の記憶の中の鏡の裏側にはっきりと映っているような気がする。
 私は、そのころは放課後部活などもなく、授業の後すぐ家に帰っていたが、家に帰っても面白くないこともあって、学校を挟んで自分の住んでいるところと反対の方向に帰る友達の家によく遊びに行った。帰りは遅くなり夕方になってしまっていたこともしばしばであった。友達と帰る途中で出会った、見知らぬ小川や神社、橋や家の連なり、自分の家とは違う雰囲気を感じさせる友達の家、そんなものに異常な興味を持った。友達のやさしい母親や祖母らしき人が、おやつにサツマイモや切干いもを下さったりした。そのような経験は、その家の玄関や縁側ではなく、裏庭や土間での記憶と結びついている。家の造りやおやつの味まで、そこに染み付いているようにさえ感じられる。理由はよくわからない。このような経験が「路地裏」という言葉の裏側を流れる私の「原風景」のようにさえ思える。遠くまで行ってしまった友達の家から、夕暮れに一人で家に帰るときその経験がさみしさを伴って、記憶の深いところに残されて行くのかも知れない。先述したフランスの教会の裏の道も、友達の家に行く途中で経験したこの「路地裏」の変形に違いないのだ。
 だから私にとって「路地裏」は、奥深い記憶と結びついて比喩的なものへと転化し、その感覚がさらに広がっていくような気がしてならない。私にとって「路地裏を歩く」とは「古い記憶を辿ること」なのかも知れない。興味とか関心というものは、それがいかに新たな装いを持って現れようと、古き経験の変形であり、それが時間的に転化して現れ、具体的なものに付着して記憶を置き去りにして転移し、それに代わってリアリティを感じさせられるのではなかろうか。

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