知らない町と、すでに自分が住んでいる町との違いは何だろうか。その違いはいろいろに考えられ、さまざまに表現することが出来る。いわゆる精通している町だったら、まず自分が今いる場所が分かるはずである。今自分は橋の東のふもとにいるから、橋を渡ってまっすぐ行くと少し大き目の十字路に出る。そこを左折したすぐのところにバス停がある、そこが自分が家に帰るバスに乗るところだ、五分くらいで着く、早足で行けば4分ほどで行ける。しかも普通はことさら自分が歩いている場所を確かめることなく無意識的に何も考えずに、バス亭にたどりつくことが出来る。というよりは知らないうちにバス停の前に立っている。時には知った顔の人がそこにいる。何の変哲も無い帰路の道である。何も考えることなく家に着く。知らない町だとそうは行かない。まず自分の立っている場所がどこかを、地図で調べるか、通りがかりの人に聞かなければならない。それ以上に心配なのは自分が行かなければならない場所がどこにあるのか、どのくらい時間がかかるか、交通機関が必要なのか、歩いていけるのか、と言ったことが問題になる。だから前もって調べる必要があるのである。そうしないと目的地にたどり着けないことを、経験的に知っているからである。行ったことがないところに旅行する場合、地図やガイドブックが必要なのはそのためである。

しかし、自分が毎日通っている道、しかも何十年も通い続けている道でも、一つ街角を曲がると、知らない場所があり、こんなところがあったのかと何か大きな発見でもしたかのように思って嬉しくなったりすることがある。
「自然は飛躍しない」とか、この世界には「偶然」なる出来事は無い、あるのは「確率の大小だけ」だと、私に言い聞かせるように言った友人がいる。学生時代のころだ。私はその言葉をときあるごとに思い出す。しかしその友人は早くして亡くなってしまった。
 宝くじに当たるのは偶然ではなく、確率の大小だというのは私にも理解できる。だから私は宝くじは買ったことが無い。しかし年末宝くじの売り出しに長蛇の列ができるのはなぜだろうか。おそらくどこかに「偶然」があるわけではなく、実際に当たる人がいるからである。つまり確率は低くても宝くじを買うのは、確率が無ではないからである。
 ある街角を曲がり、そこに思いもよらない場所に行き着くのは、確率ではなく、やはり偶然と言うべきではないだろうか。その違いは、確率にはある目的(宝くじに当たるなど)があるからであり、偶然にはそれがないということではないだろうか。
街角を曲がると路地裏がある。路地裏は偶然の支配する場所である。そこに存在している物たち,そこで出合う見知らぬ人たち、その出会いは確率ではない。路地裏とは偶然の支配する場所である。これからそのような場所を探し、書いていきたい。路地裏にはそこにしかないものたちの集合なのに、時間空間の制約が無く、どこにでもありそうで、どこにもないような世界が広がっているからである。

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