最近強く感ずることは、記憶というもののもつ不思議さです。そのことに関して「歴史と文学」の関係の難しさを知らされます。まず「事実」なるもののあいまいさです。私たちは、新聞を読んだり、さまざまな時代や事件にかんする歴史書や、さらには、確定した史実に即して書かれる教科書のような書物を読んで、何がいつどこで起こったかを確認します。しかし、そのあいまいさに驚かされます。普通私たちが事実と考えているものも、実は「事実」そのものではなく、あいまいなものでしかないということです。何で今さらと思われるかもしれませんが、大正時代の歴史と伝記を読んでいて「歴史的事件」とよばれているものも、その事実について書く人によって全く異なってしまうということを実感したからです。「伝記」も全く同じでした。「<事実>などいうものはない、<解釈>があるだけだ」というニーチェの言葉は本当だと思いました。また「歴史はそうあったことを語り、詩作(=文学)はそうあるべきことを語るものだから、歴史より文学のほうが上位にあり、真実を語るのに適している」というアリストテレスの言い分もよくわかる気がしました。今度の東北大震災と福島の原発事故の報道などをきいていて、アリストテレスやニーチェが言っていることは、まったくその通りだと思ったのは私だけだったのでしょうか。「本当の事実」などというものは人間には語り得ないもで、個々の人間が感ずる「心情」だけが真実なのではないか、と。

 そもそも、人間は過去の記憶を再現する場合、起こった事実の記憶をそのままではなく、自分の関心にあわせて、言ってみれば文学的に語っているのではないのでしょうか。それは意図的にではなく、記憶を語るということ自体がそういう構造をもっているのではないか。事実を事実として語るなどということはそもそも不可能で、それが可能だとすれば「神の手」ならず「神の記憶」を設定することによってだけなし得ることで、人間にはそういった語り方はけっして出来ないのではないか。
 「舞踏会の手帳」という映画は、美しき年取った女性が、手帳に記してあった若かりし頃舞踏会で踊った男性をそれぞれ訪ねて行き、すでに年取った男たちの「現在」に出会いながら、その現実にそこにいる人物ではなく、結局記憶の中の人物に出会に来ているのだ、ということに気がつき、それぞれの現実を「美しき過去」から見る悲哀と幸福を感ずる物語である。人間には、過ぎ去ってしまう過去はそのようにしか語れないのではないか。森鷗外に「歴史其儘と歴史離れ」という文章がある。今私が思うことは、「歴史其儘」などというものは捉えられない、「歴史離れ」してしまうのは人間の宿命かもしれない、ということである。鷗外もきっと、自分の意に反してそのように感じていたに違いない。

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