雑誌『旅』(新潮社)がこの3月号で休刊となる。廃刊ではない。おそらくまた近いうちに復刊されるに違いない。『旅』は、日本交通公社(今の「JTB」の前身「日本旅行文化協会」によって1924年(大正13年)に創刊され、戦後1946年から2003年まで日本交通公社によって、2004年から本年2012年3月号まで新潮社によって発刊されてきた長い歴史を持つ。創刊から1002号続いて来たという。それが今月で休刊となる。理由は定かではない。この最後の号には「休刊」という言葉はどこにも出てこない。編集長の「皆様、ご愛読ありがとうございました」という、簡単な挨拶文があるだけである。そこには、これまでの感慨というより、突然終わりになるという戸惑いのようなものさえ感じられる。近いうちにまた形を変えて再出版される計画があるのかも知れない。私はこの雑誌の熱心な読者だったとは言えないが、好きな雑誌だった。いずれにしても、雑誌名『旅』だけは残してほしい。
「旅」(トラヴェル)と「旅行」(ツアー)は違う。「旅人」と「旅行者」と言葉を置き換えてみるとその違いがはっきりする。その違いの大きさを身をもって体験したことがある。私にとってそれは重要な事件だった。
ヨーロッパの最大の巡礼地スペインの西の果てサンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂の広場で、見知らぬ人たちが泣きながら抱き合って、ここに来たことをお互いに讃えあっている何組かの人々を見たときのことだ。この巡礼の道はどこから出発してもいいらしい。サンティアゴ・デ・コンポステラまで辿りつけばいいのだ。しかも徒歩で。普通出発地はフランスのアルル、リュ・プイ、ヴェズレー、モアサック、トール、トルーズ等の都市を起点、あるいは通過して、ピレネー山脈を越え、北スペインを西方に向かい、ガリシア地方にある目的地サンテイアゴ・デ、コンポステーラまでの長い道のりだ。最短と言われる、ピレネー山中から歩きだすルートてもおよそ800km、少なくとも一カ月以上かかる。さらに、ドイツ、オランダなどの北の国から聖ヤコブ教会のある町を次々と経て行くルートやイギリスから船で大陸に渡り、そこから歩きだす長距離ルートなどがあり、さまざまである。世界中からそれぞれの道を通って目的地コンポステーラを目指すのである。最近日本でも出かける人が増えたという。伊勢詣、熊野詣、四国四十八か所の巡礼、秩父三十四箇所観音霊場札所めぐり、などの伝統があるからかもしれない。
私も二度コンポステーラに行ったことがある。一回目は、ポルトガル経由、もう一度は北スペイン経由である。しかし徒歩ではなかった。私は今でもそれに負い目を感じている。いつかやはり徒歩で行きたいと願っているが、果たしていない。
いつ行っても大聖堂の前には巡礼者の群れが絶えない。見知らぬ人たちが声を上げ涙を流し抱き合って祝福しあっている。聖堂の中では立ちすくんで祈り続ける人も少なくない。その光景は目的地に着き巡礼が終わった安堵感と達成感を彷彿させる、と同時に私たちに言い知れぬ負い目を感じさせる瞬間でもある。私たち旅行者にまで「完走おめでとう」とか「やっと着きましたね」とか言って祝福してくれる人たちたくさんいる。そのとき私はいつも気まずい思いをし、「すみません、私たちは歩いて来たわけではありません」と心の中で詫びるより仕方がないのである。そこで「旅人」と「旅行者」の違いを思い知らされるのである。「旅」<英語のtravel>という言葉は、フランス語の「働く、苦労する、重いものを運ぶ」といった意味をもつ<travailler>と同じ語源をもつという。そこからも「旅行」<tour>との違いは明白である。出来たら、完走ではなくても、ほんの一部でもいいから、星を頼りに歩く「星の道、サンティアゴ・デ・コンポステラへの道」を貝を首にかけて、ゆっくりでも徒歩で歩いてみたい、歩かなければならない、と強く思う。
雑誌『旅』が単なる「観光旅行」へと流れずに、大正時代のような「旅」に回帰するような意識をもって、また復刊してほしいと願うものである。