かれこれ五十年ほどになるだろうか。そのころ学生だった私は、奥日光の杉林の中を歩いていた。その時、どこからかモーツァルトのイ短調ピアノソナタの第三楽章が聞こえてきた。それがなんとも快く周りの雰囲気にふさわしく響いていた。こんな山の中なのになぜ、という疑問がわいてきたが、やはりはっきりと聞こえていた。不思議だった。今でも鮮明に覚えている経験の一つだ。
今度、画家である大穂さんが「おくのほそ道」を暗誦していて、それを朗誦してくださることを聞いたとき、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の中の曲を、特に穏やかな曲とその曲想をそこに配置したら、新たな連結の可能性が発見できるかも知れない、という思いにかられた。確かにその二つの結合は、恣意的で単なる趣味の域を出ないし、何の必然性もないように見えるが、その結合は、聞く者に新たな驚きと不可思議な感動を与えるはずだという、確信はある。菅谷さんの演奏もその結合にうまく加担してくれている。
普遍的なものは、その普遍性ゆえに必然的に結合し、連結し、さらなる可能性を広げてくれるだろうからである。そもそも「世界生成」の表現は、結合の新たな可能性によるのだ。
五十年前の記憶の残滓が、時間を経て、その構造をここに再生してくれたように思えてならない。
雨となる束の間の光小望月 たか志
9月11日の『芭蕉「おくのほそ道」への誘い』は参加予定の友人が参加できなくなり、私へ回ってきた案内でした。「日時計の丘」がどこにあるかも知らず、芭蕉の奥の細道に誘われて、一も二もなく出向くことに。「日時計の丘」は吟行で行く花畑園芸公園の帰路、裏道で通る柏原の丘越えの道筋にあった。
余り広くはないホールに30名も入ればいっぱいである。見知りの俳人たちを見つけ緊張が弛む。
ちょっと緊張気味の大穂迢雲さんの朗誦に、リラックスした菅谷怜子さんのピアノ演奏、意外な組合せも結構合うものだと静かに聞き入る。
誠に失礼ながらお二人のことは何も知らなかった。
大穂さんの絵画も菅谷さんの演奏会も一度見・聴きたいものと思う。
ジェフ・ロビンスさんの「重ねを賀す」
いく春をかさねがさねの花ごろもしはよるまでの老もみるべき 芭蕉
人それぞれに解はあるが、sw芭蕉の新しい見方を教えていただいたように思う。
ジェフ・ロビンスさんについて調べれば「あそぼう工房」の主。こちらの話も聴きたい気がした。
日時計の丘の主 井口正俊様のお計らいに感謝申し上げます。
日時計の丘にとき打つちちろ虫 たか志