最近いろいろな分野で、新たな現象が起こりつつあるように感ずる。
まず気候である。日本の気候は繊細な移り行きがあり、一年がその周期になっている。最も典型的なものが春夏秋冬である。しかし、日本の季節の移り変わりはもっとその経過は短く区切られて名前も付けられていた。年、月、気、候の4つが基本だが、月の前半を節とよんでいた。これまで日本人は、時の流れに敏感であり、気を配り、季節の移り変わりに楽しみを感じていた。しかしこの数年間はその季節の移り変わりに変化が見られるようになった。いわゆる温暖化傾向がさけばれだしたのはかなり前であるが、現在は気候の移り変わり自体に変化が出てきた。地殻変動も活発化しつつあるという報告もある。それに関係してか、日本の気候が亜熱帯化し始めたのは事実らしい。いわゆる「自然史」に変化が起きたのである。宇宙がそれ自体変化しており、地球もその影響を受け変化し続けていることは疑えない。しかもそれに人間の欲望からの人為が加担し続けているということである。それ故、私がここで言いたいのは、いわゆる「自然史」の変化に、人間の営みが悪しき影響を与えていることも確かであり、そのことに自覚的にならなければならない、ということである。私は人間の営みの流れをここでは「時代」あるいは「時代性」と言う言葉で表しておきたい。この「時代性」にもいま大きな変化が起こりつつあるように思える。
現代という「時代性」において最も大きく重要な問題あるいは傾向は、人間を守るためという名目で、世の中に起こる負の要素をすべて取り去ってしまおうとする意識である。しかもそれを人間の知性による判断と決断で可能だと考えてしまっているところが実は問題なのだ。卑近なところから言えば、私たちが子供だった頃は、「そんなことをすると罰(バチ)があたるよ」とよく大人たちに言われたものだ。現在は「そんなことをしてはいけません」と言う。そこには、子どもたちが今やっている行為に対する禁止が言われていると言う意味ではほとんど同じ意味を伝えているように見える。しかし、その二つの言い方には決定的な違いがある。前者は、子どもたちの行為を咎めているのは、人間以外の何かが想定されていて、その理由は明かされず「バチがあたる」という曖昧な言い方になっていることである。それに対して後者は、してはいけない行為には、子供も大人も理解できる理由が存在する、つまりやってはいけない理由を説明できると言う前提に立っている。その差は大きい。「バチが当たる」という表現には、その行為には人間の理解しうる領域を超えたものが下す判断に対する、恐れと恐怖が付随している。しかし後者には、それを止めればことは終わる。そこには恐れも恐怖もない。せいぜい大人(父母や先生)に叱られないこと、つまりその行為をしなければいいのである。「バチが当たる」かどうかは子どもと大人の会話の外に置かれてしまっているのだ。
現在は,神や仏を信じなくなった、と言うよりは悪魔や鬼神の存在意義を抹消してしまったところに問題があるように思える。宗教的存在をそんなに実体化する必要はないかもしれないが、「共同幻想」としての神や悪魔の存在は人間の意識では断ち切れないのではないか。それは道徳的な善悪に還元できない、倫理的な支柱がそこに存在しているからである。
よく「想定外」と言う言葉が使われるようになったのも同じ理由による。想定外の出来事が起こるかもしれないから、それに対して万全の対策をとらなければならない、というのが、現今の判断の基準になっている。しかし、人間の出来る最後の倫理的行為は、想定外の出来事は「いつもすでに起こる」と信ずることではないだろうか。想定外の事件が起こった時、道徳的責任をいくら追求しても意味が無い。それに対して「想定外のことは起こる」と信じた倫理性は決して批判されるかことはないし、批判の次元を超えている。「想定外のことは必ず起こる」のである。それを人間は避ける事は出来ない。
トマスの「猜疑心」、デカルトの「欺く神」の想定は正しかったし、カントの「純粋理性のアンチノミー」も受け入れることが出来る思考方法かもしれない。ドストイェフスキーも「悪霊」の存在に悩まされていた。現在、人間ははそういった思考方法を捨ててしまったが故に、つまり悪魔や鬼神の存在を忘却してしまったがゆえに、神をも捨て去ってしまったのだ。人間は、現代父母のいない「孤児」になってしまったのである。
「神は死んだ」のではない、ニーチェが言うように人間に殺されたのだ。そこを考えなければならない。それをいつ始めたらいいのか。「今でしょう」。冗談を言っている場合ではない。想定外のことは無条件に起こる。対策など必要がないのだ。なぜなら、対策がたてられるのは想定内のことに対しのみで、想定外のことに対してではない。想定外のことは人事を超えては必ず起こるのだから。「バチが当たらないようにする」には、想定内の範囲を拡大して対策を立てることではない。当の行為自体を止めること、つまり欲望を放棄することである。確かにそれは簡単なことではない。対策を立てることが無意味だと言っているわけではないが、おそらく、人間に出来る最も重要なことは、「バチが当たらない」ように努力することではなくて、普段の生活の中で「バチが当たること」をどうしても人間はしてしまうという「弱さ」の認識であり、想定外のことが必ずが起こるということを信ずることではないだろうか。それが「無条件」ということだろうから。そこから出発することが肝要である。そうすれば、想定外のことが起こることを想定しての対策の意味が反転してくるからである。