前から気になっていたことに外国語の日本語表記の問題がある。と同時に、あるいはそれ以前に縦書、横書きの選択がある。先日ある雑誌の原稿を書いていて、ワープロで書いた横書きの文章を縦書に変換したら、様々な不備が出てきた、予想していたものから、なぜこうなるのだろうと考えてしまうものまである。
以前もこのような作業を何度もやってきたがその時は、それほどにも感じなかった日本語の特殊性に思いが及んだ。日本語の書記方法が自由自在であることは最近強く感ずることだが、それは日本語の発生及びその進化の歴史に深く関係していることは間違いなさそうである。その一つは、いわゆる古語、あるいは漢字が入ってくる以前の、いわゆる「やまとことば」は表現様式としてすでに完成度がすこぶる高かったのではないかと推測できることである。日本の表現様式とここで言っているのは、話し言葉(口語)と文字による書き言葉(文語)とが分裂する以前、つまり漢字の輸入以前に、その二つの区別に相当する何らかの差異が存在し、その差異を意識的に使い表現を豊かにしていたのではないか、ということである。私は国語学者ではないから、その差異について実証的に論ずることは出来ない。漢字という異質な媒体が入ってきた時の日本人の反応は異常なほど保守的だった。保守的というより、以前それを使いそれによって表現してきた方法を、なるべく変更せずに漢字を導入しようとしたのではないか、ということである。もちろん漢字によって日本語が変化を被ったことは当然であり、自明な事実である。しかし私は、漢字によって決定的な変化を受けたと言っても、それが、表現様式による思考方法や感受性の表出の言語的変化であったとはどうしても考えられないのである。そこを考えることが、わたしのこれからの最も重要な課題なのであるのだが、その差異が「詞」と「辞」の区別に対応していることは予想がつく。しかし「詞」も「辞」もすでに漢字であるから、日本語の古層にその差異のありかたを探さなければならない。それは、簡単な作業ではないし、おそらく実証できないことであろうから、現在私たちが言語について当面する課題をどう解決するか、あるいは歴史的にどう解決してきたかということから時間的に遡って追記的に「、、、こうであったはずである」というかたちで示すより他に方法はないように思われる。これからそこをどうにかして明らかにしていきたい。
日本語は自由自在の言語である。その自由さは、漢字が輸入された時の日本人の対応の仕方によってすでに実証済みだと言えよう。それ以降、いわゆる「漢字仮名混じり文]が主流になった。これからは「英語仮名交じり文」が多くなることはまちがいない。「手に入れる」が「ゲットする」になり「getする」と書かれるようになる。すでにNHKは「今日のweather」というテレピ番組の名を採用している。「今日の天気」でいいのにと思うが、言語はそのように変化していくのである。「チョー面白い」や「ゆるキャラ」などが現代日本人の言語感覚であるとすれば、外国の都市「巴里、羅馬、伯林、維納、紐育」などの表記は表記文字は漢字だが、発想は日本語的であり、伯林(ベルリン)の思い出を綴った詩「鈕」(ボタン)を書いた鷗外等が生きた時代の文化人が日本人として外国語に対して抱いた意気込みを強く感ずると同時に、私には経験できなかった遠く「過ぎ去ってしまった」時代に対して懐かしささえ感じてしまう。しかしどちらも、日本人の言語表現感覚の一つの表れと言っていいだろう。これも日本語の「自由自在」性から来ているのだ。
「ギョエテとはおれのことかとゲーテいひ」という川柳がいつ作られたか調べてたことはないが、外国語表記を現在より真剣に日本語に即して表記しようと明治・大正の人たちは真剣だったことは間違いない。現在、ヴェやウェを新聞や教科書は使わないが、ベ―トーベンやベニスはやはりやめたほうがいいと思う。ビデオをヴィデオと書いたり、テレビをテレヴィと言ったりしたらキザだと言われそうだけれど、ベートーヴェン、ヴェニスのほうがやはり日本語としても響きはいいし格調がある、と感ずるのは、私だけであろうか。
最近芥川賞をとった黒田夏子さんの『abさんご』という作品は、よく日本語の特質を考えて書かれた小説で、賛否は分かれるようだし、この試みを真似する必要はないが、現代このような表記の小説を書いたことは、忘れられようとしている日本語による感性の表出に成功していると私は思う。漢字かな混じり文の意味を再考させられた人もいただろう。また、ワープロの横書きを意識しつつも、縦書でなく横書きで、しかも手書きで書いているというところにも日本語に対する黒田さんの意欲を感ずる。日本語ほどその表記が複雑で、表記の仕方によって微妙な表現が可能になリ、また逆に意に反して変化してしまう、世界でも稀有な言語なのである。歴史的にも様々な試みがなされてきた。その辺の事情は、屋名池誠氏の『横書き登場―日本語表記の近代ー』(岩波新書)に詳しい。
外国語の日本語表記の在り方を再考するためにも、日本語の自由自在性の意味をもう少し真剣に考える必要を感ずる、今日このごろである。