梅雨明けと同時に蝉が鳴き出した。普通最初に鳴き出すのはニイニイゼミだが、今年は複数の種類の蝉が一斉に鳴き出したような気がした。蝉もこの暑さと湿気に戸惑ったのかもしれない。やはりこのところ自然は明らかに変化してきている。とくに雨の降り方の変化が大きい。局地的に大雨が長く続くところと、雨量が少なく干ばつになる地域との格差が大きくなってきている。それは日本だけでなく、地中海周辺でも似たような減少が起きているという。乾燥したコルシカ島で大きな山火事があり、ローマやヴァチカンでは泉が枯れ初め、水の制限が始まったという。ヴァチカンでは、ここで泉の水を止めざるをえないのは有史始まって以来のことだという。ここ九州北部地方でもそうだが、水害と干ばつが同時に起こっている。やはりこれはどこかおかしい。
それ以上に人間の方も急激に変化させられているようだ。先日東京の文京区小石川に住んでいる小学五年生と三年生の女の子が家に遊びに来た。私はなるべく外に出るようにさせたが、外の気温が高いこともあって、あまり外に出ず涼しい家の中で漫画本ばかり読んでいる。夕方になった時、一斉に庭の蝉が鳴き出した。すると、上の子が「せみがうるさい」と言って耳に手で蓋をしながらまだ本を読んでいた。
子どもが「蝉がうるさい」といったのを聞いて、以前外国人がコオロギの声がうるさいと言った、という記事を新聞で読んだことを思いだした。われわれは夕方から夜にかけて、コオロギの声が縁の下の方から聞こえてくると、なんとなく秋が深まていく情緒を感じたものだが、外国人には騒音にしか聞こえないらしい、というコメントが付いていた。そういうことだったのか、と子どもの蝉に対する反応を聞きながらそう思った。子どもには、外で鳴く蝉の声が実際にうるさかったのだろうと驚かざるを得なかった。そのとき驚きと同時に、さもありなん、といやに納得させられた。
人間の五感は、聞く人間のそれまでの生活環境によって変り、それによって形成されるのである。その子どもにとって、外から聞こえてくる道路工事の音も庭の樹で鳴く蝉の声も同じように「うるさく」聞こえたのだ。外国人だからではない。生活習慣の違いからなのだ。
現在、人間が感ずる五感は外からの物理的な刺激だけでなく、それがすぐ情報に転嫁されて届くようになってきているのだ。大袈裟に言えば、外界の形や色、声や音の質もスマホを通して感ぜられるものになってしまっているのである。スマホで聞こうとしない蝉の声は、それが外から直に聞こえてきたら、聞きたくない雑音になってしまうのである。自分に都合の良い情報だけを選択して受け取るようになってきているのだ。その子達はそうではなかったが、都会のマンションの12階に住んで自分の勉強部屋でスマホの情報を主な感覚と知識に限定される子どもたちは、その生活空間によって自然から遮断されることは間違いない。道路工事の音も、蝉の声も情報化されると同じ雑音として聞こえてしまうのである。
自然を情報化し、存在がすべて意識化されてしまう時代が近いことを知らされた、子どもたちとの体験だった。
周りの人たちとか地域社会とか自然環境とかといった、じぶんを取り巻くものごとと自分自身がいかに調和していくか、ということに意を用いる発想は古来のわたしたち日本人には馴染み深いものだったと思いますが、次第に調和よりも自己実現に重きを置く発想が定着してきているような気がいたします。
「蝉の声がうるさい」という感覚もそのことと関連があるように思います。自分にとって「必要でないもの」は顧みる価値もない、という個人主義的な発想が根っこにあるのではないでしょうか。
「個人主義は利己主義とは違う。他人という個人も尊重するのが個人主義」と中学校では教わりましたが、そういう、ひとりひとりがばらばらに生きている、という発想はどこか真実を見誤っているように思えて仕方がありません。
自分と他人はめざすものも生きる目的も異なる、という点は自明だけれど、同時に意識するとしないとにかかわらず、互いの相互作用によって生き様を響し合っているし、それら相互作用の集合によって社会が機能している、という面も否定できないと思います。そうであれば、よくある、ひとはひと、自分は自分、なにをしようと自由だ!という態度は100%否定はできないにしてもどこか不遜なものを含んでいるように思います。
「蝉の声はうるさいのか。」
「蝉の声はうるさいのです。」
子供さんにとって「今、この時は」うるさいのだと思います。
たとえ、蝉の声でなくて、美しいピアノの音や、普通の声で話す家族の声も、建設工事でパイルを打ち込む音も、「気になりだしたら」すべて同じ「雑音」に変化すると思います。
私が子供の頃机の前に置いてあった古い蛍光灯スタンドから出る「ジー」という音でさえ、また、音がほとんどしない「シーン」という音(?)だって、気になりだしたらそれこそパニックです。
園児の声がうるさいと幼稚園の開園を拒否する社会になっています。このような問題の「うるさい」と子供さんの発した「せみがうるさい」とは質を異にすると思います。
そう言ったからとしても、どうしようもないことは、とうに心得ているのだと思います。
気持ちのはけ口として「無駄な抗議」をあえてしているのだと思います。
蝉の声そのものがうるさいんじゃないのだから、山登りしてからの蝉の声だったら、また違った反応をしていたことでしょう。ひょっとしたら、集中力が少し欠けてきているのかなと思ったりもします。
この子供さんみたいに、磊落で、真っ直ぐな子供がいいですね。
「せみがうるさい」と、そばで聞いて、多分、ニヤッと笑って「都会では味わえまい」と自慢に思われたのでは・・・・