「逝きし世の面影」とは、渡辺京二氏による著作の書名である。最近の名著と言ってもいいと思う。私はこの書物を読んで様々なことを考えさせられたが、特に現今の日本の世相の変化を、またその意味を深く考えさせられた。この書物に啓発されたのだが、実際毎日の生活の中でも「逝きし世」「過ぎ去った過去」は時間とともに薄れていくものではなく、私たちの現在の意識を規定する「現実感」に由来しているのだという逆説を考えなければならないと強く意識させられたのである。最近にない読書経験だった。ここで何が衝撃的だったか、そこから何を考えなければならないかなど、学んだことを記しておこうと思う。
この書物を読んでまず感じたことは、幕末から明治のはじめ頃にはまだ存在していた、曰く言い難い尊い何かを失ってしまった、特に戦後しかも戦後すぐにではなく、まさに今現在それを捨て去ってしまったのではないか、という思いである。そう言った、なんともやりきれない思いに駆られる。と同時に、それとは裏腹な形で、これまでになかった危ない生活環境の中に投げ込まれそうになっているという危機感のようなものを意識させられる。そういった意味で、現在まさに人間の歴史の大きな転換期に指し掛かっているのではないかという思いを強くさせられもしたのである。その時やはり「逝きし世の面影」を少しだけでも残したいというかすかな希望を持ち続けたいと思った。その面影を出来得る限り残す工夫と手段を見つけることしか、もう私には残されていないのだ、と。これは決して老人の戯言ではない。
今日から3月、だがまだ寒い、春は遠い、「春は名のみの 風の寒さよ、、、」というところだろうか。これはまだいい。春先は長く、春はなかなか来ない感じは昔から変わらないように思えるからだ。
ただ最近奇妙に重くのしかかってくる感じを受けるのは、「現実−リアリティ」のあり方の変化である。年々歳を取るせいかとも考えられるが、どうもそれだけではなさそうである。具体的とまでは言わないまでも、特に21世紀になって、変わってきたなと思うことは地球規模での環境の変化と、世界の、あるいは日本の世相の質の変化である。戦後の高度成長期と呼ばれる時代も確かに、それ以前と比べて大きな変化だった事は確かである。日本列島の自然環境を大きく変え、生活意識を大きく方向転換してしまったからである。しかし現今やって来る世相の変化は、これまで経験したことのない得体も知れないもので、意識されない形でじわじわと押し寄せてくる気配を感じているのは私だけではあるまい。それは個々の事柄の変化、形に現れた部分よりも、人間がこれまで抱いてきた「現実感」自体がその意味と価値を失い、新たな「現実」に直面しつつあるという予感のようなものを伴って、私たちに重力を感じさせないような「現実の喪失感」を持ち来たらしている、とでも言ったらその感じに近いかも知れない。しかもそれを普段感じられないということが問題である。それを感じていてもそれを避けたり、抵抗したりできなくなっているのである。そのような事態の進行と変化が避けられない必然のように社会が受け止めてしまっているからである。こういった新しい事態こそ「逝きし世の面影」が私たち現代人にその意味を考えさせ、思い起こさせてくれることなのである。
私が『逝きし世の面影』を読んで感じたことの一つは、その内容が、幕末から明治にかけて日本にやってきた様々な国の外国人が書き残した日本の世相についての見聞、実の体験、それらについて各自が感じた感想や意見を主な題材にして書かれているのに、かなりの共通な部分があり、それがほとんど現代失われてしまっていると、私たち日本人が感じさせられることである。しかも、その失われてしまってもはやないと私たちが感じさせられるほとんどが美しきものであり、興味ある風俗や行事、あるべき姿としての礼儀や習慣などの人間模様や人間関係のありかたなのである。勿論、そこには批判的なことや理解が難しいことなどが含まれている事は当然ではあるし、それもまた身に迫る思いがし、反省すべき事実であることもまた確かなことである。ただ、そこに書かれ報告されている事柄の多くは「もはや、ない」ものであるり、逝ってしまった人の重要さは失ってしまって初めて気が付き、その面影を懐かしく追い求めるように、現代のわれわれに「取り返しの付かない」ものを再認識させてくれ、その向こうに「あるべき」姿が浮かび上がってくる、という反転と反復は、やはり非常に重要なことのように思えてくる。過ぎ去って、もはやない、という「過去認識」は過去の意識ではなく、現在の意識なのである。『逝きし世の面影』はその重要な事実を喚起してくれる、最近読んだ本の中にはなかった懐かしさと同時に、その読後感は特別に新鮮なものだった。と同時に、この新鮮さは、現在まさに起こりつつある事に直結させることが出来るとも感じたのである。
先ほども触れた、私たちが現今誰でもが感じさせらている「現実感-reality」の希薄さと曖昧さ、「価値判断−valuejudgment」の多様化と非決定性などの現代的問題に接近する道のりをも示唆してくれそうな気がする。そこから、人口減少に伴う「過疎化=限界集落」の問題や「家族内でのまた友人間での暴力=いじめ」などの問題に関しても、その在処と方向性などをも明らかにしてくれるはずである。
さらに、時間的に過ぎ去った物事や出来事との距離が何を意味するのかという観点から、その「中間」あるいは現在と過去を「媒介するもの」(メディウムーmediumーメディア)の形態の意味を考えさせてくれる。それは、私たちの現在の「現実感」も「価値観」も直接性を失い間接的に媒介されてしまっていることにほかならない。唐突にきこえるかも知れないが、ロボットやドローンの制作と応用および、世界で起こっている出来事を伝える報道(=メディア)のあり方は同じ構造を持っているということである。また、そこが現代流行りの「グローバル化」と進行しつつある「ナショナリズム化」が実は同じ根拠から発生していることにも理解されるはずである。これからその辺の事情を具体的に逐次書いていこうと思う。
渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)はまさに今現在読むべき書物であるように思われる。