旅することは楽しい。だが、なぜ楽しいのか、その理由は殊の外難しい。自分で旅をし、また旅の本をいくら読んでもその謎めいた旅することの楽しさの理由や意味はよく分からない。ただ確かなことは「旅とは、ここではないどこかへ移動することだ」ということである。しかしそれは旅ということの定義をしているだけであって、旅する楽しさの根拠ではない。最近感ずるようになったのは、旅する楽しさは淋しさと相関関係にあるということである。そんなことは分かりきっている、誰でも言っていることだ、と言われそうだが、もし旅にある移動が伴うとすれば、その移動は行ったり来たり、楽しかったり淋しかったりする相互関係という移動ということではないかということである。
それにその移動は無意識的なものであるということだ。その相互関係の無意識的移動ということを考えてみると、譬えはよくないかもしれないが、認知症の患者の徘徊である。家の者が、お父さんが家から、あるいは病院の部屋から居なくなった、一日中探してもどこへ行ったかわからない、と言って警察に通報してくる。探した結果家の周りをただうろついていた、という場合もあれば、とんでもなく遠い見知らぬところまへ行ってしまっていた、という場合もある。家族の人や病院の看護婦さんが、どうして黙って出て行ったのか、心配するではないかと尋ねても、当本人は答えられない。当然である。答えられるくらいなら、徘徊などしないだろうからである。ただ第三者である私たちに考えられることは、家であれ病院であれ、その患者はそこが居心地が良くも悪くも、ここではない、どこかへ出かけて行きたかったのではないか、ということである。その理由は、家族の態度が冷たく暖かさが感じられなかったとか、介護の人が不親切だったとかいうことが徘徊する理由ではないということである。つまり決まったある事実がその理由ではない、ということである。言ってみれば理由などないのである。もしそうなら、すべての患者が徘徊することになるだろうし、認知症の人だけでなく普通に生活をしている人にも起こりうることである。誰にでもそうする理由はあるからである。この患者のばあいはそうではない。徘徊する特別な理由など無かったのである。あえて言えば、あるいは言うとすれば、ここではないどこかへ無意識のうちに行きたかったのではなかったのかということぐらいである。われわれが旅に出る理由をあえて捜すとすれば、この患者の徘徊する理由に似ているのではないか、ということである。もしそこに違いがあるとすれば、ただわれわれの場合意識的な出発であり、その途中で楽しさや淋しさという感情が伴ってきたり、あるいは回顧的にそう思ったりするだけではないだろうか。
歴史始まって以来、あるいはある種族や民族が様々な理由である土地に定着して生活するようになってから、人間は、自分の居場所を離れて外に出ていく、いわゆる「旅」という行為を特別なものとして考えるようになった、と言われている。ということは、自分が普段居住している場所ないし家があり、祖父母・兄弟など血縁関係者やその延長としての知人・友人がいる共同体の存在が旅なるものの前提になっているということになる。とすれば、旅はまずそういった親しんだ場所や人間から離れ外に出ていく行為である。しかし一旦そこから離別し、見知らぬ土地、見知らぬ人と出会うと、それまで経験したことのない様々な興味ある事柄に遭遇することになる。しばしの時が経つと旅の途上で、ふと以前自分が住んでいた所や人々のことを回想するようになる。そこが旅なるものの最も不思議なところである。今あの人は、あるいは家の人達はどうしているのだろうかと、いわゆる望郷の念に駆られることになる。そこから旅は反転し、元の場所に「帰っていく」という、いわゆる「帰郷」なる行為が始まるのである。
古来、どの民族にも叙事詩や民話なるものが残っているが、その多くは旅の何たるかをテーマにしているものが多い。最も著名なものにギリシア叙事詩の「オデッセイア」がある。ギリシアの英雄オッデッセイがトロヤ戦争を終えて、妻ペーネロペーが待つ故郷イタケーの島に帰る途中で出合う様々な困難な出来事を、その卓越した知恵で切り抜けて帰郷する物語である。まさに「帰郷」がテーマである。西洋の文学の祖が「オデッセイア」にあると言われるように、西洋文学の多くが基本的に主人公の様々な「帰郷」を描いている。重要なのは、そこでの「帰郷する」という行為には生者からの要請とその要請を形成する生者のための論理構造があるということである。なぜなら、生きるために「帰郷する」のだからである。
日本の『古事記』の中に出てくる、東の方の十二の荒ぶる神を平定し和平せよと命じられた「倭建命」の東征の下りも「旅」のあり方の一つの典型になっている。ただ、倭建命の場合「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、、、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり」と書かれている通り、命ぜられた東征を果たしての帰り、新治、筑波(茨城)、酒折(甲斐)、當藝野(岐阜)から尾張を過ぎ能煩野(のぼの、三重)にまで来て、かの「倭は 國のまほろば、、、」という國偲びの歌をうたって、筋書き通りに客死することになっている。帰郷を果たせず客死するというのも「旅」には必然的にいつもついて回る事柄である。「死者は行ってしまうのではない、帰ってこないのだ」というのが我が国の死生観に強くある考え方である。いわゆる「輪廻転生」的思考は、既に長く日本に住み着いた考え方ではあるが、出自はインドや古代ギリシアにあったものであリ、日本の固有なものとは言えまい。死ぬことを「旅立つ」とよく言うがそれは片歌ならず片事であり、最終的には「帰ってこない」というのが死の本質であり意味である、と言うのが我が国の本来の考え方のようだ。しかし、その考え方も歴史を遡って行くと、どこにたどり着くかはそれほど明確ではない。輪廻転生的思考も世界の各地に普遍的に存在する考え方であるからである。日本がその例外である、と言うにはある種の決意が必要なのかも知れない。
日本では「可愛い子には旅をさせよ」という言葉は昔からよく言われてきた言葉だが、どういう意味で、どんな時に言う言葉だろうか。普通には、親元を離れて世間の荒波の激しさを体験させ、子どもを自立させよ、という風に解されている。これも最後的には「死の経験」の暗喩としての意味があり、その無意識的な文学的表現と言ったほうが実はその言葉の意味形態に近いとも言える。しかし、言葉の流れとしては、子どもが成長していくときに起こる様々な矛盾や桎梏を経験し、それを乗り切っていってほしいという願いを親が子に伝えたいという単純な論理でいいのかも知れない。
旅をここでは少し限定してしまったようだ。「旅は道連れ、世は情け」とか、「旅は未知なものとの遭遇であり新たなものの発見である」いう面もあり、そもそも人間がはなぜ旅をするのかという問いは「定住と漂白」という人間存在の二重のあり方にその起源があると考えられるので、そちらの方向にこれから話を向けていきたい。

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