言葉とは不思議なものだと、最近強く思う。
子供も大人も、先ず言葉を覚える、ないしは言葉を聞く。その言葉の意味するところが分からないまま、言葉のほうが最初に来る。そのあと時間が立って、覚えた言葉の意味ないし物が何であったかを、事後的に知るのである。逆ではない。意味や物を知ってから言葉を覚えるのではないということだ。ただ、言葉を覚えてから意味ないし物に行き当たるまでの時間が様々なだけである。
昨日NHKの「家族に乾杯」という番組を見ていたら、言葉と意味の関係について考えさせられる場面に出会った。舞台は福岡県の久留米市においてであった。鶴瓶さんが、三人の小学生とある神社に行き、そこで賽銭箱に小銭を入れ、願い事をする場面が出てきた。鶴瓶さんはここで願い事をすると願いが叶えられるよ、といった意味のことを言う。その後鶴瓶さんが、子供たちに先ほどの神社で、何をお願いしたのと三人に聞く。一人の男の子が「平凡な人生」と言った。もう一人の男の子は「勉強」と言い、女の子は「将来の職業、給料のいい職業」と言った。鶴瓶さんは「平凡な人生ねえ」と少し驚きを隠せない感じがしたようだった。その番組に直接出ていた人たちも、あるいは私のような番組をテレビを通して見ていた大人たちも、小学生の子供から「平凡な人生」をお願いしたといった言葉が出てきたことに対して、驚きとも苦笑とも言えない複雑な反応をしたことは想像できる。ただ言えることは、その男の子は父母あるいは祖父母からか、つまり大人が「平凡な人生」という言葉を話していたのを意味もわからずに聞いていたということである。しかもその言葉を肯定的なものとして語っていたのを聞いていたのである。そうでなければその子は神社でのお願いごととして「平凡な人生」という言葉を思い浮かべるはずがないからである。おそらく周りの大人達はことあるごとに「平凡な人生がいいんだ」という意味を込めてその言葉を使っていたのであろう。その子供に大人たちが使う「平凡な人生」がどんなものであるか、その意味や内容が理解できるわけがない。大人の私達でも「平凡な人生」がどういうものか定義出来ないし、具体的にもそれがどういう人生かを言うのかを伝えることは出来そうにない。それはほとんど不可能なことである。しかし、私達もおそらく「平凡な人生」という言葉を以前から聞いて知っており、それから長い時間を経て「平凡な人生」の意味がなんとなくわかってきたのに違いない。「平凡な人生」という言葉を事あるごとに使ってきたということが重要なのだ。しかも、おそらくその子供の周りの大人達は、望むらくは自分も「平凡な人生」を送りたいというニュアンスを込めて使っていたに違いない。だからこそ、その子供は「何をお願いしたの?」という問いかけに対して「平凡な人生」をという言葉が咄嗟に出てきたのである。それが言葉のもつ秘めた力であり、言葉の不思議さというものなのである。
考えてみると「平凡」という言葉は難しい言葉である。「この小説はいたって平凡だ」とか「平凡な生活に飽き飽きした」等と言われるときは「平凡」という言葉はネガティヴな意味に使われている。つまり、面白くも楽しくもない、つまり「凡庸」という意味で使われることになっているのである。しかし「平凡な人生」という言い方の場合は「いい」とか「わるい」とかいう対立した言葉の外に出ており、そこでは「平凡」という言葉は、比較することなどほとんど意味を成さないといった、否定でも肯定でもない「自然な」という意味に転嫁している。しかも、非凡でも凡庸でもなく、まさに平凡な出来事の連なる人生、川の水が岸にそって無理なく流れるような「自然な人生」は実は稀であることを、私達はどこかで学んだのである。「平凡な人生」がいいのだと自分に言い聞かせるように言うのは、「平凡な人生」を送ることがいかに難しいかということの現れなのである。それは「非凡な人生」とか「凡庸な人生」とかいう言い方をしてみるとよく分かる。どちらの言い方も価値判断した結果出てくるもので、どこか無理をしたり気取ったりしていることがにじみ出ている。やはり「平凡」がいいのである。私達それぞれが、いかに特殊な人生を送ろうとも、結局最後には「平凡な人生」に戻って行くのではなかろうか。
ここで私が感じたことは、「平凡な人生」という言葉自体、つまりその内容ではなく言葉自体の持つ何か、またその少年にその時その言葉を使わさせた何か、その二つの何かが思いもよらないちぐはぐさを出来させ、そこに滑稽な面白さを感じるのであり、それ故にそこから出てくる誰にも否定出来ない真実がそこに現れているのではないかということであった。私はそこで最近にない、言葉の持つ遊戯性と誠実な真実を生じさせる言葉の不思議さを味わった。私はその夜寝てからも「平凡な人生」という言葉を繰り返していた。
わたしも平凡な人生がいいです(笑)。
でも、ほんと、このことばは不思議な真実味がありますね。なんていうか、人間のいやらしさ・・・小賢しさ、虚栄心、欺瞞・・・そういったものから自由な状態をイメージします。
「おれはこれまでの人生でこれだけのものをやってきたんだ」と誇る態度からもっとも遠い姿勢ですものね。
でも「平凡な人生」にたどり着くにはそれこそ非凡な努力の積み重ねが必要なんでしょう。
怠惰なまままともな人生歩めるほど世の中甘くはない。お天道さまに顔向けできないようなことしてたら、とてもじゃないがこころの平安は得られない。
あるいは、絶えず「おれはこれでいいんだ、じゅうぶんなんだ」とじぶんに言い聞かせているようなひとは、こころのどこかで「これではほんとはいけないんだ」ということに気付いている。それも「平凡な人生」のこころの静謐とは相いれないものでしょう。
そう思えば、「平凡な人生」は彼岸の理想なのかもしれません。