美術館と図書館は公共文化施設として誰にでもよく知られた場所である。最初に図書館について、私の図書館というところでの経験から話しを始めさせていただきたい。
図書館と言えば沢山の書籍が棚に並べてあり、そこから好きな本を取ってきて「読む」ところ、あるいは沢山の資料を使って調べ事をするところという印象が強いが、私の場合本を読むあるいは調べ事をするところと言うよりは、思考をあれやこれやと「考える」ことの出来る、行ってみればその時、その瞬間精神が身をおくことの出来る場所、という意味合いが強い。それは一般化することの出来ない考えだと私も思う。私が図書館なるものに長いこと親しむことがなかったのがその理由だが、私にとっては図書館は精神の重要な居場所であることで十分なような気がする。だが、そこには直接本を読まなくても、周りに本があるということが条件になる。だが、その理由はまだ私にはわかっていない。おそらく、書籍というものが言葉によって書かれ表現されているというその性質からして、矛盾した二重の意味を持つことに由来しているように思われるが、それを集めた図書館なるものは、もう少し複雑なものなのだろう。図書館とは本を読むということだけでは済まされない何かががあるはずだからである。本を読むという行為が謎めいてくるのは、私達が考える以上に深い意味があるのかも知れないのだ。最初の図書館と言われるエジプトのアレキサンドリアの図書館を建てさせたのはかのマケドニア出身のアレキサンダー大王だが、その命に従った知識人たちはその建設時(BC332年)に、どのようなことを考えていたのだろうか。当時はまだ博物館と美術館の区別はなかっただろうし、どんな要請が他にあったのだろうか。おそらくパピュルスに書かれた歴史的な文字や絵が遠方からも持ち込まれ、それに様々な発掘物も同時に集積されたにちがいないが、ただ私はその中に「考えるところ」という要素が内在していたことに思いを馳せるだけである。それらの集められたものを見て、人間は何事かを「考えた」だろうからである。ただ言えることは、図書館の建設という思想自体はもはやギリシア古典古代のものではなく、すでにヘレニズム時代になっての考え方であることを確認しておく必要はある。そこにあるのは、話された対話ではなく、書かれた書物という思想である、ということだ。そこにある思想においては、話された言語ではなく書かれた言語によるものという区別は自覚されていたはずである。でなければそれらのものを収集するという発想は不可能だからである。その幾多の場所から広く収集するという発想自体すでにアテネの古典古代の文化を離れて遠くまで広がっていく文化に変貌し始めたヘレニズム時代のものになっていたと言っていいだろう。それ故、どこの国のものであれ、図書館なる施設は書かれた書物の収集ないしはそれらの書物を広く集積するという意味を持っているのである。それは現代まで続いてきている図書館なるものの本質だろう。
最近電子図書なるものの出現で、図書館の意味も変化することが予測されるが、言葉自体の存在からくる「考える」という要素は失われることはない、と思う。「話す」(パロール)と「書く」(エクリチュール)という二つは確かに異なった事態だが、人間の「考える」という行為は言語発生の時にさかのぼっても「言語作用」(ランガージュ)そのものに共通な要素だと言えるだろうからである。話すと書くということが二つの異なった行為であり、その区別が言語なるものの解明に必要かつ不可欠であることは確かだとしても、その優先順位はなく「考える」という行為を支えている二つの要素と考えられないだろうか。この問題はここですぐさま論じられるような単純な事柄ではないので、止めにするが、図書館なるものがその区別を前提にしたところから出てきたものであることを、ここでは確認すれば足りる。私はただ、それに「考える」という人間の行為を付け加えたいだけである。しかも、それは、その区別以前の言語そのものによって可能となった行為として、あるいは人間が人間存在となった根拠としての、人間が最初に行った最も古い根源的行為であるのではないか、とここでは考えたいだけである。それも図書館なるものの存在が私に言語の何たるかを考える契機を私に与えてくれたからである。そのきっかけは私の高校生だった頃に遡る。
今では大きさや充実度を考えなければ、小さな町や村の小学校にも美術館は無理だとしても図書館はどこにもある。その町村の学校への取り組みに方もよるが、私が一度訪ねた山村の小学校の図書館は、その蔵書の数や図書室の様子は想像以上のものだった。校長先生、あるいは担当教師の先生の心意気や熱心さが伝わってきた。その時、私が小学生だった戦後すぐのものがない時代の小学校のことを思い起こさせた。日本のどこにでもある農村の小学校だったが、広い運動場、低学年と高学年学級に分かれ渡り廊下で結ばれていた校舎が三棟、それにかなり広い講堂だけだった。図書室はなかったように思う。少なくとも私には図書室に行ったという記憶はない。子供たちが教科書以外に学校で本を読む機会は殆どなかった。友だちがそれぞれ家に帰って本を読んでいる気配はなかったし、本が話題になることもなかった。時に比較的裕福の家庭の子供が、当時から小学館から出ていた『小学三年生』とか言う学年別の雜誌を学校に持ってきて、皆に見せていたが私にはほとんど興味がなかった。憶えているのは、サトウハチロウが母親につぃて書いた絵入りの記事だけである。内容は記憶に無い。ただ私の場合、家に父が読んでいたと思われる書物が結構あったが、それも難しかったせいか、ほとんど読まなかった。ただ、今考えると柳田国男の『村のすがた』という本だけは、薄い緑色の本で何度もページを捲った記憶はある。テレビもゲームもなかったことを思うと、昼休みや放課後は、ビー玉やめんこ、昆虫採りや魚釣りのようなことをして外で遊んでいたとしても、夜は家で何をしていたのか思い出せない。小学五年生になったとき、理科の教科書に載っていた工作で、電池で鳴るベルやエナメル線を自分で巻き、やはり電池で回るモーターを作った記憶はある。小学生時代は私はいわゆる科学少年だったのだろう。自分が作ったベルのちょっと鈍いが、早く鳴ったり、どうしたわけか時にはゆっくりなったりした音は今でも耳に残っている。電池を入れるとなぜベルが鳴るのか、その仕組についてもその時理解したように思う。バネと電気磁石の関係がうまく出来ているものだと思ったものだ。今は自分でその原理を理解したと思っているが、もしかしたら先生がその時教えてくれたのかも知れない。
中学生になってからも図書室にはあまり行った記憶はない。サッカーと音楽に夢中になったからである。それに中学生の時は二人の先生から大きな影響を受けた。一人は英語の先生でわが校に赴任してきたばかりの先生だった。いわゆる戦後の自由主義を体験し、その自由さを生徒に教えてくれた先生だった。英語が上手になったとは思わなかったが、英語から広がる世界を教わったと思う。英語ができるようにならかったのは先生のせいではなく私の語学能力が無いためだったのだと最近強く思う。その先生とは放課後個人的にもよく話をしていただいた。ナサニエル・ホーソンの『緋文字』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、トーマス・ハーディの『テス』などの小説について、そのさわりのような所、主人公の行動などを話してくれたのである。内容はよくわからなかったが、私の全く知らなかった世界であり、それを語る先生の情熱のようなものは伝わってきた気がした。もう一人の先生は、理科の先生で化学がご専門だったようだ。というのもその先生から理科の勉強ではなく、主に美術のついての話を聞いたからである。その先生はまだ独身で、私が当時住んでいたところのとなりの部落の大きな長屋門に住んでいたので、よく先生のお宅に友人と遊びに行っていた。先生は自分も絵を書いていた。その絵についてはあまり記憶にないが、その先生から現代絵画についての話をよく聞かされたことはよく憶えている。いま考えれば、ミレーやモネー等の印象派のはなしではなく、ピカソやブラックの話だったと思う。その頃朝日新聞の文芸欄に、いろいろな人の描いたカットが載っていた。私はそのカットを毎回切り抜き白い紙に貼ってアルバムのようなものを作っていた。新聞記事を切り抜きそれを集め保存するという作業は、中学生だったその頃が最初でまた最後だった。そのアルバムはかなり厚いものだが、今でも押入れの上の棚に残されている。どうしても捨てられないのだ。私の絵画を見る習慣はそこから始まったからであろう。その先生に習って絵を描くことも始めたが、高校に行ってから、絵の上手な友だちの絵を見て、いかに自分の絵が拙いかを思い知らされ、やめてしまった。私の悪い癖ですぐやめてしまうのである。いつも母から「三日坊主」と揶揄されていた。それは本当だと今では自分の大きな弱点だと自覚するようになった。今も絵を描くことは嫌いではないく、時々色紙や短冊に好きな詩や短歌や句と一緒に絵を描いたこともあるが、字も絵もあまりにも下手で見れたものではなく、それからは字や絵を描く気にはなれない。ただ絵を見ることは、今でも続いている。見るだけなら、才を必要としないからだろう。見ることにも才と努力が条件になり、それがいつも要請されることに気がついたのは、ずっと後になってからである。
そんな感じで、私は少年の頃本を読む習慣は身につかなかったし、図書館に行くこともなかった。それが今でも尾を引いていて、私は本を読むのが至って遅いのである。今でも同僚が本を早く読むのに驚かされ、同じ本でも自分が半分ほどしか読んでいないのに、彼はもう読み終わっているのを見ると、なぜ自分はこんなに本読みが遅いのだろうと引け目を感ずる。能力とか才能と言ってしまえばそれまでだが、幼いころ、あるいは少年の頃本を読まずに、本に慣れ親しんでいなかったことにも原因があるのではないかと、思っている。今では走るのが早い人と遅い人がいるように、本を読むのも早い人も遅い人もいるのだろうと考え、自分を慰めるようになった。その才能がないのだし、本を読む練習をしてこなかったから仕方がないのだと。
誰の言葉か忘れたが「図書室のような静かな場所で生きなさい・・・」という言葉は今でも事あるごとに思い出す言葉である。高校三年生の秋のことだった。他の友人達は、もう自分が目指す大学や学部を決めて受験勉強なるものに精を出していた。担任の先生からも入学したい大学は決めたのか、と聞かれ、いやまだですと言わざるを得無かったが、そろそろ自分も決めなければと考えなければとは思ったが、具体的なことまでは考えが及ばなかった。ある日図書室に行ってみた。天気の良い秋の日の夕方で、図書室の窓から夕日が差し込んでいた。図書室の横に梧桐の木があり、枯れかけた葉の間からその光はやって来ていた。その差し込んできた光がちょうどそこにあった書架に並んでいたカント全集に当たっていた。その背表紙の「カント全集」とい文字が私を惹きつけた。なぜかはわからない。その頃カントなる人物についての智識は全くなかった。秋の日差しがカント全集に合ったっていた光景を見たその時、俺は哲学科に行って哲学を勉強しようと思ったのである。これしかないと思ったのである。根拠があったわけではない、ただ秋の夕日が図書館に差し込んでいてその光がカント全集に当たっていたという偶然的事実があっただけである。その光景を私は天啓のように感じてしまったのである。後になって考えると、思い出す理由はあったようにも思う。高校三年生になったばかりのとき、講堂で講演会があり、その時東大の教授であった原佑先生が来校され、先生の講演を聞いたことがあったのである。校長先生は講師紹介で今日講演して下さる原先生はこの学校の出身で、今東大で哲学を教えており、若い学生に人気のある教授である、とわれわれに紹介した。原先生の話の内容はよく理解できなかったが、ハイデガーという人の名を挙げ、「故郷とはなにか」というような話だったと記憶している。細かいことは覚えていないが「故郷」などということがなぜ哲学の話題になるのかと思ったが、話を聞いたあとの気分に何か大切なことを聞いたという感想だけが残ったのは記憶している。後になって、大学で哲学を勉強するようになって、原先生はハイデガーの専門家で翻訳者でもありハイデガーの『存在と時間』カントの『純粋理性批判』(両方とも上・中・下の三巻)などの翻訳を出版しておられる事がわかった。それ以来先生にお会いしたことも、話を聞いたこともななかったが、先生の著書は読むようになった。高校の講堂での経験がどこかに奥深く残っているように思うことがある。
以上のことが私が「図書館」なるものに実質関わるようになった始めである。いかにも遅いと言わざるをえない。それから、帰り道の途中にあった甲府のカトリック教会の附属図書館に毎日通うようになった。やはり哲学を専攻し後に明治大学の哲学の教授になった友人と二人で、その図書室で一生懸命受験勉強をするようになった。成績は彼には到底及ばなかったが受験勉強もまんざらでもないと感ずるようになったのは彼のおかげである。偶然といえば偶然だが、その教会に住み込んで教会の仕事をなさっていた方がよくその図書館に来られていた。その方から折につけ日本古典文学の面白さを教えていただいた。「もののあはれ」ということが日本文学の真髄であることを具体的な文章に即して教わった。話の上手な方で、私はその方のお話から多くの影響を受けたと今でも思っている。忘れ得ぬ人である。小林秀雄の『無常といふこと』を読んだ時も、そこに書かれていたことが、表現の仕方が実は重要だということは承知しての話だが、その方の話から聞いたことと基本的には同じ内容であると感じ取っていたと思う。また、小林秀雄の主著となったと言われる『本居宣長』から「もののあわれ」なる現象だけではなく「もののあわれを知る」というある種の認識論が付加される必要があるということこそが宣長の言いたかったことである、という小林秀雄が主張する意味がよく分かったのも、いま考えれば、甲府カトリック教会の「静かな小さい」図書室での経験に由来するように思えてくる。教会付属図書館と言ってもはまだ畳の敷いてある小さな日本間であった。図書館と言うよりやはり図書室というのが相応しい。あれ以来そこを訪ねたことはないが、今はどうなっているのだろう。その図書室が私の精神的な居場所の原点であることは間違いない。ドイツに行ってからも様々な図書館のお世話になったが、あの小さな図書室は忘れがたい場所になっている。最近私の思いは、遠く古い記憶に帰っていくようである。その図書室への思いもそのひとつである。
それにしても、梧桐の枯れた葉の横を通り抜けて、高校の図書室の窓から差し込んで来たあの秋の陽の光は何だったのだろう。私の人生を決定付けたあの光は?
図書室の窓に差し入る秋の陽は遠き行く末計るごとくに
行く末を照らすが如く秋の陽が差し来たるなり図書室の窓
「美術館」については次の機会に書こうと思う。