橋にはいろいろある。向こうに渡るという目的は同じでも、その橋が作られた国・時代・場所によって全く異なった様相をもつ。丸太一本のものから、蔓で編まれ、狭い谷に掛けられていて渡るのが怖いような揺れる吊り橋、となり村との境界になっている淋しい木橋、大正時代頃独特のセメントで作られた懐かしい村中の橋、現代のように、高速道路が山間いの深い谷の上を走り、海の水面を駆け抜けるために海上に作られた何キロメートルもある長い橋まで、様々である。

私の遠い記憶に忘れずに残っている橋は、橋の上に屋根の付いている木橋である。私が渡ったことのある屋根付きの橋はイタリア、フィレンツェを流れるアルノ川にかかる最も古いヴェッキオ橋、ドイツ、テューリンゲン地方の首都エアフルトの中心、ガール川に架かるクレーマー橋、スイス、フィアワルトシュテッター湖のほとりの町ルツェルンに架かるカペル橋(1993年火災で一部焼失したが、すぐその翌年1994年再建された)などだが、私の記憶に深く残っているのはそのような著名な橋ではなく、ドイツとスイスの国境にあるライン川のほとりにあるラウフェンブルクという小さな街に掛かる橋である。ラウフェンブルクの街は、ライン川を挟んで両側にある。その近辺のスイス、またオーヴァーシュワーヴェン地方には、田舎の小さな川にも屋根付きの橋が結構たくさん架かっていた。何故屋根をつけるのか聞いたことがないので分からないが、どこか特殊な風情がある。遠くから見てもそこに川があることが分かるからだろうか。ラウフェンブルクの街は南側はスイス北側はドイツである。ボーデン湖とスイスのバーゼル市との中間ぐらいに位置している小さな街である。歴史的にこの辺はナポレオンの時代にスイスとドイツの間の国境が引かれ、今でもそれが続いているという。そのためラウフェンブルクの街は二つに分けられてしまったのだそうである。名前は今でも両方同じである。国は違ってしまっても元は同じ街だったのだから、親戚も多くそれぞれに残っているという。二つのラウフェンブルクの両側を連結する橋は木橋で屋根付きのもので、今でも同じように屋根付きの橋が架かって残っている。その橋は真っ直ぐではなく妙に曲がっていた記憶がある。私がその橋を渡った時は、橋のふもとでパスポートの提示を求められた。国境だからである。ただファッシング(カーニヴァル)の時期だけはパスポートなしで渡れるという。渡るのがお祭りの行列や見物客だからだろうか。普通はその橋を渡る人は少ないせいか、国境などという大げさな感じはなく、橋を渡る人たちのパスポートの管理をする役人もなんとなくおおらかで人の接し方も長閑だった。
以前『マディソン郡の橋』というアメリカの小説とその映画が話題になったことがあったが、その映画を見た時、ラウフェンブルクの屋根付きの橋を思い出した。周りの景観はほとんど似ているとは思えなかったが、田舎の屋根付きの木橋が舞台になっていたのでその類似性が私の古い記憶を呼び戻してくれたのかもしれない。屋根付きの橋はどこか特別の趣がある。川に架かる普通の橋とは異なった要素があるのだろう。映画でもその屋根付きの橋が大きな役割を果たしていた。
私がまだ学生だった頃ラウフェンブルクで知人が歯科医の研修をしており、その友人を訪ねた時、その橋のすぐ横に建てられた古い家に住んでいた家族の家に連れて行かれたことがあった。その家族は昔ライン川で魚を捕る漁師だったのだという。地下には未だに当時使っていた長い竿に曲がった魚鍼のついた道具が何本か掛けてあった。捕獲するのは結構大きな魚だったようだ。今でもそのような魚を捕ろうと思えば捕れると、そこの娘さんの祖父らしき老人が言っていた。知人の友人であったその娘さんも、祖父の語る話に耳を傾け首肯きながら聞いていた。祖父の話を聞くその娘さんの美しさは、私がそれまでに見たことも会ったこともない格別の美しさだった。これまでにない不思議な驚きだった。特別な服装をしているわけではなく、白いブラウスの普段着でどちらかと言えば、話し方も仕草も田舎風な素朴な感じだった。その時私は、このようなところに本当に美しい人がいるのだと思った。形容詞のいらない素顔の美しさだった。今でも私が出合った人でこれほどの美しい人は未だにいない。これからもいないかも知れない。その方が知人と私を、天井が低い木組みで建てられている古い魚師の家の造作や部屋割りなどを見せて下さり、またその家の前の細長い庭からそこに直接続くように建てられていた屋根付きの橋を案内してくださった。川と橋と家の間いだの距離空間がうまく配置され前庭に接続していた。その前庭の下の方にラインの流れがのぞき込めるような位置に家は建ててあるのだ。急流とはいえないが、川の流れはかなりの速度だったように思った。庭の下の方にラインの流れが見え隠れしているのが見えていた。河岸の家に長く住んでいる人にはあまりそのような意識はないのかも知れないが、河が増水したらどうするのだろうなどという危惧を私は感じたりしていたが、実際には家の庭は川面からはかなりの距離があるのかもしれない。屋根付きの橋を見ての帰り際に彼女は知人と二階の窓越しに話をしていた。私達がお茶をご馳走になった居間は南の入口から入ると地階、北の出口のほうからは二階に位置していたのだ。土手の裏側の斜面に家は建てられているのだろう。私には二人の話し声は聞こえなかったが、窓越しに話すその女性の美しさは、ライン川上流のラウフェンブルクの家屋付きの木橋の記憶と共に長い時間を経ても未だに忘れがたい私の思い出になっている。
日本にも家屋や屋根の架かった橋があるかどうか調べてみたら、愛媛県喜多郡河辺村に杉皮の茅葺き屋根をもつ橋が五ツもある。その中のひとつが「ふれあい橋」と呼ばれている立派な橋だが、最近、1992年に作られた新しいもののようである。一度訪ねて見たい気がする。日本でも橋の袂は特別な意味をもっているように思う。橋の袂は「出会い」の、また「別れ」の場所でもあるからだ。人を送る時「あの橋まで」などとよく言うが、橋の袂はそのように何かが始まり、何かが終わる場所なのだ。もしかしたら山陰地方の見知らぬ寒村の村外れの橋の袂で、ラウフェンブルクで出会ったような美しい女性に出会えるかもしれない、などと「橋の思い出」は幻のごとき出来事を追想させてくれるように思えてくる。
屋根のある木橋で美しい景観を作っている忘れがたい街がある。ドイツ南西部シュワーベン地方のシュヴェビシュ ハレという小都市である。そこを流れるコッハー川を挟んで東と西の岸に沿って古い木組みの家が並んでいる。川岸から眺める街の景観の美しさは一度訪れたら忘れがたいものとなる。それは私だけではあるまい。その川にいわゆる中洲が形成されていて、二つの橋が架かっている。今でもその橋は自動車では渡れない。その西側の橋が屋根付きの木橋で、馬車の行き交っていた頃はこの橋が主流だったと思われる。この橋を渡ると旧市街である。この街は昔から岩塩がとれたことから、中世から近代まで塩の流通で栄えた裕福な街だったようだ。街を歩いていてその雰囲気からそれを観ずることができる。何しろ町並みが整っていて美しいのだ。
一昨年久し振りにこの街を訪れた。新しい美術館ができてそれを見に行ったのである。ヨハ二タバードという修道会付属教会の後が旧美術館になっており、中世以来の祭壇画が並んでいる。その中にはデユーラーやホルバインのめったに見られない貴重な作品が所蔵されていた。それほど大きなものではない。その建物の南側に、この街の市民であるラインホルト・ヴェールとという篤志家が基金を出して建てたものだという。小さな街としては結構大きな美術館だった。新美術館では、フリーダ・カーロ他メキシコ絵画の大きな展覧会が催されていた。中世祭壇画とフリーダ・カーロとは奇妙な組み合わせだと思ったが、帰りながら坂の上から街を眺めていたら、これが現代なのだという意識が芽生え、納得して少し落ち着いた。なぜかフリーダ・カーロの作品を推奨してくれた女子学生のことを思い出していた。
コッハー川の中洲にかかる屋根付きの木橋がやはり古くからこの街の人々を行き交わせた中心にあったことは間違いないように思われた。
橋のふもとに生い茂った柳の樹の長く垂れ下がった枝が、川面を吹く風に揺られてなびいていた。屋根付きの橋を渡り終えると中洲に着く。中洲にある岸部に近い狭い広場で子供たちが遊んでた。その広場の前に置かれたベンチで皆一休みする。街なかに通ずる次の橋に行くまでのひとときだ。長い橋ではないが、そこまで来るとある意識の区切りが必要らしい。中洲を挟んだ二つの橋はその形と風情が全く異なっているからだろうか。向かう方向によっても意識が変わるように思う。私は屋根付きの木橋を渡る時になぜか特殊な思いが襲ってくる。どこからそれがやってくるのか理由はわからない。おそらく不思議なめぐり合わせなのだろう。もう一度そこに行って確かめてみようと思うが、結果には変わりないような気がする。

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