橋は特別な場所である。おそらく橋は人類が自然に働きかけた最初の工作物だろう。また、橋を見るとどうしてか渡ってみたくなる。これも人間が長い経験を積み重ねてきた無意識のようなものだと思う。なぜなら橋なるものは、向こうに渡るために作るものだからである。
橋の記憶は多かれ少なかれ誰にもあるだろうが、私の場合いつも川の記憶と結びついている。橋の記憶をたどっていけば、子供の頃遊んだ小川の水面に直接架かっている板橋である。木製の木橋ではなくただの一枚の板である。大人なら一飛で渡れるほどの小さな川なのだが、そこにはなぜか板橋が掛けてあった。子供や農婦のためだったのだろう。私はそこで、子供心に川を渡るには橋なるものが必要で、こちら側から向こう側に行くには橋を渡るという行為が欠かせないことを身体で識った最初だったと今では思っている。この記憶は数ある経験のなかで、最も大きく重用な記憶であると思うのは、あらゆる領域に「境界」というものがあり、人間はその境界をどうしても越えていかなければならない事が多いからである。つまり、向こう側とこちら側、こことあそこ、抽象化すれば「彼岸」と「此岸」という言い方になるような二つの領域が必ずあり、それを隔てる境界を越えることを強要されるからである。現実においても比喩としても、その境界を越えるためにあるものが、いわゆる「橋」なるものである。人間はどうしてもこちらから向こうに渡らなければならない特殊な事情があるのである。橋はそのためにある。村の小川にかかる板の橋の思い出から、『源氏物語』の宇治十帖の「橋姫」から最後の「夢の浮き橋」まで、川と橋への思いは同一の心情の現れのように思われる。川と橋は場所や時代を超えた人間の心的な領域にまで深く繋がっているのである。
古代においては何処も同じで、川を渡るのは至難の業であった。時代は下って江戸に入ってからでも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」なることわざがあるように、かなり高くても峠なら何とか越せるが、広い川はなかなか越えることが難しかったのである。大河には橋なるものがまだ架かっていなかったからである。小さな川は別にして、当時はある程度の川幅のあるところを渡るのは船以外にはない。水の深いところを選んで舟場を作りそこを渡し船で渡っていたのである。もっと古い時代は比較的浅い場所を探しそこを水に浸かりながら渡っていたに違いない。おそらく水の少ない時機を狙って浅瀬を渡ったのである。たとえば、イギリスにオックスフォード(Oxford)、ドイツにフランクフルト(Frankfurt)という都市がある。この都市名の語尾に当たる「フォード」という言葉と「フルト」という言葉の語源は同じで、「浅瀬」ないしは「渡し」という意味である。つまりオックスフォードは牛が渡っとところ、牛達を渡らせた場所という意味であり、フランクフルトはフランク人たちが渡ったマイン川の浅い渡瀬だったのである。ドイツにも「牛の渡し」(Oxenfurt)とか「豚の渡し(Schweinfurt)などという名の町が今でもある。ちなみに「オックスフォード」とよく並べて語られる「ケンブリッジ」(Cambridge)について言えば、近くを流れるCam川には早くから橋(bridge)がかかっていたのかもしれない。ヨーロッパにはローマ人が二千年もの昔に架けたという橋が結構今でも残っている。全て石橋でそれほど長くはなく、比較的幅のない川に多くが残っている。イタリアはもちろんスイス、フランス、ドイツなどでも普通に見ることが出来る。自動車は無理だとしても、今でも村人たちはその橋を使って近道として移動している。橋を作るのは古来難しいと言われてきた。土木事業に長けていたローマ人でも橋を掛けるのには苦労したようだ。大きく分けて橋の構造は、吊り橋と架け橋の二つがある。両方共特殊な技術が必要らしい。吊り橋と架け橋は現代の橋でもそれを建設する構造原理は同じである。現代の橋は最新の技術工学を駆使して込み入った複雑な構造ををしているように見えるが、橋の原理は「吊る」か「架ける」かの二つしかない。今でもはその両方の原理を応用しているだけである。
学生の頃、友だちが江東区の新大橋と云うところに住んでいた。新大橋という名前は、その少し上流の墨田区にある東京(江戸)と千葉(房総)を挟む古い両国橋(大橋)に対して付けられたためらしい。新大橋自体も江戸時代からある橋で、何度も架け替えられた記録が残っている。私が友人の下宿に足を運んだのは、東京オリンピックより以前の話だから現在の新大橋ではなくまだ掛け替える前の鉄製の古い橋だった。東に向かって橋を渡って左側の方に友人の家はあった。そこを逆に右側に行くと芭蕉の住んでいた芭蕉庵、今の「芭蕉記念館」の方に出る。そこから隅田川から少し離れて内部の方に向かうと常磐や平野、その先がいわゆる深川で、材木で有名な木場方面にでる。その辺には小さな運河が縦横にあり、そこにはまだ材木が沢山浮かんでいた。深川はやはりその頃でもまだ江戸の風情を少なからず残していた。いまどうなっているのだろうか。長いこと深川には行っていないので、近いうちに再訪してみたい。
最後にここに来たのは何時頃だっただろうか。新しく作られた新大橋は元の橋とまったく異なった形のものになっており、路面は都電も走らなくなってしまってってからすでに久しく、私が友人の宅を訪れた頃とこの辺の風情はすでに変わってしまっていた。現在は隅田川の両脇には高いビルやマンション群が立ち並び、高速道路が走り、橋の上からぐらいしか隅田川は見られなくなってしまったという。当時の新大橋に通っていた頃からだいぶ後になって、三浦哲郎の小説『忍ぶ川』を読み、主人公が知り合ってばかりの志乃という女性を連れて、自分の学費や生活費を工面し一家を支えてくれていた兄と最後に別れた木場に行き、その足で洲崎生まれの志乃と、その深川から木場の辺を材木を操る人たちを眺め、小さな運河に架かる橋を渡りながら一緒に歩き、ちょうど洲崎橋にやってきた時、志乃が子供の頃のことを思い出すように「わたしはこの近くで生まれ育ったのよ」となつがしげに言い、いまは料亭「忍ぶ川」の女になっている志乃の話を聞く場面を思い出した記憶がある。少し歩くとすぐに行き当たる、この深川の運河にかかる小さな橋、橋、これも橋にまつわる私の忘れがたい若き頃の思い出のひとつである。
これから「橋」について、古い記憶を「思い出」に変えて書いていこうと思う。長い旅になりそうだ。