このところ難しい問題についてばかり書いてきたので、今日は少し最近経験しそこで感じた具体的なことを書いてみようと思う。
一昨日久し振りに散歩をした。私の住む福岡市の南に位置する柏原地区は、佐賀県と接している背振山系の麓にある油山と呼ばれる小高い山の東側に位置していて、以前は農作地帯だったが、四十年ほど前から山を削って新しく造成され「花畑ハイツ」と呼ばれる地域である。それ以前は小さな農家の集落が散在していただけだったという。それから福岡市の郊外の住宅地に変貌したところである。ここも高度成長期からの日本の都市変貌の典型的な姿であると言えよう。私がここに住み始めた頃はまだこのあたりは、周りに古くからの農家があったが、今は周りに少しの田んぼを残して、ほとんど一軒家の住宅が建ち並ぶようになった。現在もさらなる土地の造成と団地建設が続いている。空き家も増えているというのに、何故今さら山や丘を切り崩し、森の木を切って宅地を造成しなければならないのか私にはよくわからない。福岡市の中心からバスで四十分近くかかり、それほど交通の便がいいとも思われないのに、土地造成は終わることなく続けられている。
ただこの辺で景観としての救いがあるとすれば、以前から農業用水確保のために作られた大小の池が点在していることである。結構の数である。その水辺には葦が生え、水鳥が遊び、亀が甲羅を干し、その季節が来ると渡り鳥たちが羽根を休める場所になっている。その一つに「箱池」と呼ばれる周囲が約1kmほどある池がある。その池の周りは散歩用の歩道が作られ、ところどころに木製のベンチが置かれたり花壇が季節の花を咲かせたりしている。そこに時には10人以上ものカメラマンが集まってくる。鳥の撮影のためだという。独特の青い色で人気のある「カワセミ」が来て魚を捕りに池に潜るところ、あるいは魚を口に咥えて飛び立つところを狙って写真を撮るのだという。なかなかその瞬間をカメラに収めるのは難しいらしい。一日中待っても駄目な日も多いという。それでも、カワセミのいろいろな姿の写真を見せてくださった方々が多々おられる。写真のコンクールや写真展に出品する人もいるし、先日自分が写した「カワセミ」がカラーで新聞に載った、などと誇らしげに語る人もいる。趣味もここまで来れば本格的だ。上空を旋回している鳶や鷹が、池に猛スピードで降りてくるのを狙っている写真家もいる。
また、この池はゆっくりと歩きながら散歩する老夫婦、犬のとの散歩を毎日かかさずにやってくる人、かなりのスピードで走るスポーツウェアを着た青年、どこかの雑誌にでも載っているように手を振り足を上げて早く歩くご婦人、子どもと話しながらベビーカーを押しながらゆっくりと歩く若いお母さんなど、様々な人が様々な人々がこの池に集っている。ときにはこの池の周りを何回も走る競技大会なども行われるらしい。この池は小高い丘の中腹にあるので、西北の方向をみれば、玄界灘に浮かぶ能古島、回ってくるように横たわる志賀島が見え、博多湾にそって埋め立てられ土地に立つ福岡タワー、ヤフオクドームなどがシルエットのように遠望でき、北側の奥の方には福岡の中心天神地区や博多駅がかすかに見え、その東側には飛行機が発着する飛行場があり、ひっきりなしに飛行機が離着陸している。真東には西鉄電車が走り、それに平行して九州新幹線が走っているのが見える。南側はこの辺では一番高い片縄山がすぐ近くに立ち,その下が私たちが住む住宅地である。わが「日時計の丘」もこの池から見える位置にあリ、ここから歩いて5分ほどである。
三年ほど前に腰から左足にかけて筋肉痛がひどくなり、痛くて歩けない状態になった。いくつもの病院に通い、そのつど薬をいただいたが、どの病院の薬もまったく効かなかった。最後に訪れた整骨院の先生が、マッサージを勧めてくださった。それから毎日マッサージに通った。二週間ほどしたら、痛みが和らぎ歩けるようになった。まだ正常歩行とは言えないが、生活には困らない程度にまで回復した。マッサージには今も週2−3回ほど通っている。どの病院の先生も、散歩をするように勧めて下さる。しかし昔から私はそのような散歩は苦手だった。時間を損してしまうという感覚さえあった。最近になって、そのように考えるのはまちがっていて、歩行訓練には散歩が一番いいことが分かってきた。以前からその効用は理解して吐いたが、なかなか実行せずにいた。今日久しぶりにこの池の周りを散歩した。以前散歩して出会った方々が私の病状を尋ね、これからもここに散歩に出かけてきて下さいと言ってくださった。何故か涙が出てきそうだった。散歩は自然の中に身を置くのもいいが、知っている人だけでなく、見知らぬ人に出会うのがいい。時々見知らぬ人と、あまり深刻でない話をするのも楽しい。今日、ある外国人の方がベンチでスケッチをしていたので横から覗いたら、結構上手だった。私は彼に話しかけた。画家ではないが、スケッチをして歩くのが好きらしい。それまでに描いたスケッチブックを見せてくださった。私は英語が上手ではないが、話しているといろいろと楽しい話がでてくる。自分はイギリスのマンチェスターから日本にやってきて学校で英語を教えていること、弟はドイツのドルトムントで働いている事、二週間前に娘が生まれたこと、などを嬉しそうに話してくれた。マンチェスターとドルトムントと言えばサッカーの香川選手が行ったり来たりした都市である。話が「言葉」の事になった。私が、英語と言ってもアメリカの英語とイギリスの英語はまったく違い、私はアメリカ人の話す英語のほうが聞くのがが難しい、英語と米語ははっきりと違う言語のように区別したほうがいいのではないかと言ったら、彼は「Kingsenglish と Qeensenglish」の違いにふれ、言語は出自は同じでも歴史的に変化して行くものだ、ということを強調した。さもありなんと思った。同感である。日本語は話すことよりも読み書きが、非常に難しい、特に漢字がと言った。これもその通りなのだが、彼が最後に「日本人でも読んだり書いたり出来ない人がたくさんいる」と付け加えた。どのレヴェルの漢字のことを言っているのか分からなかったが、自分のことを言っているように思い、内心恥ずかしい感じがした。少し暗くなってきたので、彼は家に還らなければと言い、握手をして自転車に乗って去っていった。私たちは結構長話をしていたことに気付いた。自転車の小さな赤いテールライトが夕闇の中に消えていった。家まで自転車で30分程かかると言っていた。
西の空はもう夕焼けも終わり、あたりは少し暗くなっていた。池の周りは夕暮れの気配が漂っていた。私も家に向かって歩き始めた。様々な思いが頭の中を去来した。精神を病み、書くことができなくなったスイスのロベルト・ヴァルザーという作家のことが頭をよぎった。ヴァルザーは他の作家と比較できない奇妙な文体と幻影がつきまとう独特な作品を書き、かのカフカに影響を与えたことでも知られている不思議な作家である。彼が、年の暮れに病院の近くを散歩していた途中で心臓発作を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となった事を思い出していた。その時ヴァルザーは78歳だった。私は池をめぐる夕暮れの散歩道を歩きながら、自分もヴァルザーのように散歩の途中で倒れるかもしれないなどということさえ考えながら歩いていた。急に淋しさがやってきた。私は早く電灯の灯ったところまで歩こうと、足を速めた。

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