立春が過ぎたというのに、寒い。ここにきて「春は名のみの、風の寒さよ、、、」と感じた人は多いと思う。それにしても、昨今の気象の変化にはどこか異常に感じるところがある。地球自体に変化が起き始めているようにさえ感ずる。しかもその変化は社会の、文化の、言語の変化と何処か連動しているのではないか、と思われる。というより、人間そのものがこれまで「人間」という名前で呼んできた、その何かに変化が起き始めているのではないか、とさえ感ずる。はっきりした具体的な根拠があるわけではないが、どこかで「人間」という名前はそろそろ返上する時が来ているのではないかとさえ、最近強く思うのである。そこまで言わなくても、現在の世界情勢、現今の日本社会の動きを見ていると大きな変化、質的な変化が起きていることは確かである。変化自体もさることながら、問題はその変化に対する判断が難しいことである。
難しい問題として、今回も言語の問題を考えてみたい。昨日冬季オリンピックン会場となるソチの競技場がテレビで紹介されていた。その会場の入口の上に大きく「WELCOME」の文字が書かれていた。冷戦の頃にはおそらくそうはならなかったはずである。しかしここで私は、冷戦時代がよかったとか、英語で書かれていることが良くないとかいう単純なことを言っているわけではない。私が問題だと感ずるのは、世界がこぞって単一な情報論理によって動き始めていることの方である。以前、少なくとも私が学生時代の頃は、ソ連に行けばロシア語の、ブルガリアに行けばブルガリア語の、ハンガリーに行けばハンガリー語の文字が書かれていてほとんど読めなかった。特にアラビア文字は私には一語も分からなかった。しかし私はそれに対して何の違和感も感じなかった。いろいろな国にいろいろな言葉があり様々な異なった文字があるのだと思い、異国に来たという感じを強くもち、返って遠くに来たという旅愁さえ感じた。しかし、そういう時代は今終わりを告げようとしている。いわゆる「グローバル化」の波が押し寄せてきているからである。その「グローバル化」は言語的には「英語化」と言っても差し支えない。新聞を読んでいると、それほど長い文章でもないのにカタカナ英語が三つぐらい入っていることは普通のことになった。特に顕著なのは頭文字だけを取った言葉の多いことには驚かされる。私の知識の無さかとも思うが、他の人に聞いてもよくわからないものが多いと言っていた。あまリにも分かりにくいものにはカッコして日本訳が入れてあるので助かるが、それにしても多すぎるような気がする。専門用語・業界用語が日常の生活の中に入り込んできたとも言えるが、一般的にも現今の話し言葉・書き言葉においても根本的に日本語の文章自体が変化し始めているのではないかと強く感ずる。
日本における「漢字仮名交じり文」という特殊な言語形態は、奈良・平安時代に生まれ整っていったと言われているが、それに対して現代「英語カナ混じり文」なるものが形成されつあるように思えて仕方がない。言語においても現代は歴史的に大きな壁に打ち当たっているというべきだろう。私たちはその「英語カナまじり文」にだんだん慣れていくのだろうが、その二つには決定的な違いがあることを忘れてはならないだろう。その違いは漢字は表意文字であるのに対して英語は表音文字によって成り立っていて、それが表意文字ではないことである。この相違は決定的である。漢字を和文に同化させていくのに、先人たちがどれほどの知恵と努力によってそれに成功したか、深くしかも感謝して考えるべきであろう。明治期の学者・文人はヨーロッパ語(英・独・仏等)をそれ自体意味を持つ漢語を使って翻訳し和文に同化させようとした。これもまた並々ならぬ知識と努力のお陰である。例えば、「野球」以外はあまり使われなくなったが「蹴球」(サッカー)、「籠球」(バスケットボール)、「庭球」(テニス)、「卓球」(テーブルテニス=ピンポン)、野球だけでも、投手、捕手、一塁手、二塁手、三塁手、遊撃手、左翼手、中堅手、右翼手、四球、三振、犠打、出塁、走塁、盗塁など、日本人の言語感覚の素晴らしさを感ずる。それにつけても現代の「英語カナ混じり文」に対して、それがうまくしかも綺麗に美しく流通するために、私たちはどのような方法を考案したらいいのだろうか。途方に暮れるのは私だけだろうか。もう少し時間が経過すれば可能になるというのだろうか。私が気になるのはその結果、美しい日本語が損なわれてしまわないことである。「英語カナ混じり文」が快く響き、書かれた時美しく見えるだろうか。日本語は世界にあまたある言語の中で最も包容力のある言葉であることは間違いないし、その包容力と応用力によってこの難問を解決していってくれることを願うのみである。「ある」「する」「なる」の三つの動詞と助詞と助動詞をうまく変化させて使い、センスある和製英語・翻訳語を多用することが必要になるだろうが、百年後の日本語がどうなっているか、残念ながらそれを見届ける時間は私たちにはない。ただ美しい日本語を維持していってもらいたいと思うだけである。
それにつけても、外国語の習得に会話だけに重点を置くという、現今の考え方だけ止めたほうがいいと思う。聞く話すだけでは言語文化は薄っぺらいものになってしまうし、読み書きが加わってこそ言語は完結するものであり、その美しさも保てるはずだからである。
言語の問題においても現代は大きな曲がり角に来ていることは間違いないと思われる今日この頃である。