昨晩春雷がして、本格的な春が来る感じがした。今年は春雷が遅かった。春がなかなか来なかったのだ。私にはそう感じられた。
「春雷」とは、冬に終わりを告げる雷鳴を言う。ここでは「冬に終わりを告げる」というところが重要なのである。一般には春鳴る雷鳴のすべてを指すわけだが、ことさら春雷というのだからやはり、春に聞こえる雷の全てを総括して言う言葉というより、それは冬の終わりを告げる瞬間的な雷鳴と言ったほうが、その語感からしても語彙に合っていると思う。その音を聞く人の心境にもよるのかも知れないが、冬が去って、やっと春だという感慨は「春雷」の本来の意味であって、春の到来を告げる「春一番」という表現などよりも感覚的に強く響いてくる感じがする。
しかし、辞書をひくと、例えば一般的に使われている『広辞苑』では「春に鳴る雷。寒冷前線に伴う界雷の一種」となっていて、「冬に終わりを告げる」というところが抜け、一般化されている。辞書は字数に制限があるから、長々と説明することができないという制約があることは確かなので、言葉あるいは事柄を深く知りたかったら、一つだけではなく、複数の辞書を引いてみるのがいいと思う。実際「春雷」の項に「冬に終わりを告げる」ということが書いてあるものもある(例:新明解国語辞典)。辞書は一つだけでなく複数の辞書に当たるべきらしい。辞書にも個性があるからである。
すべての事柄を説明することを目的とするいわゆる「百科事典」ではなく、言葉に特化した辞書に限って言えば、日本の場合古文を読むときのための古語辞典と一般的な国語辞典とを区別する傾向にあるが、いいこととは思えない。古文と現代文をあたかも異なった文章であるかのような錯覚を受けるからである。古文も現代文も日本語であるのに変わりはない。言語は時代によって変化するものであり、語彙はもちろん文法さえも異なっているのだから、古文と現代文を分けて考えるのにも一理あるとも言えるが、私は日本語の全体、またその変化や歴史をも包含して考えたい。その点で疑問に思ったのは、外国では古文と現代文の差異をどう扱っているのかということであった。どの外国語にだって古代、中世、近代、現代、の区別は歴史的に存在している。ここでの関心は、ある言葉に関わる歴史である。例えば「春雷」という言葉がどのように使われているか、いつ頃から使われたのかと言った、言葉の歩んできた歴史である。私が少し不満に思うのは、日本の場合、普通の国語辞典にその言葉の出典は書いてあるが、その言葉が初めて使われた時期と書物が列記していないことが多いことである。言葉は意味だけでなく、言葉には歴史がついて回っているのだから、辞書もその二つの面を追ってほしい。
春雷がし、もうすぐ四月である。新学期になったつもりで、これから辞書を詳しく読んでいこうと、思う。

One Thought on “辞書を読む(1)

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年3月29日 at 9:23 PM said:

    古語と現代語は地続きである、ということを証するための研究の成果を著した書物などもあるようですね。
    わたしは、書物がいまでいう「古語」の文法で書かれていた時代に、日常の話し言葉はどういうものだったのだろう?という点にも興味があります。
    二葉亭四迷が「言文一致」を唱えて、その主張に基づいて小説を書いたりしていますが、わたしにはかえって読みにくかったという印象しかありません(笑)。まあ、ほんのさわりしか読んだことがないのに言うほうがおこがましいのですが。
    それと、古語で書かれた、いわゆる「文語体」の文章っていうのはどうしてあんなにも気品があるのでしょう。リズミカルで、控えめながら深い情を感じさせてくれます。
    それに比べ、ひとときはやった「口語の短歌」とやらの、いかにも「はすっぱ」な感じはいただけないな、と思います。
    ことばは、それを使ってきた先人たちの体臭のようなものがしみこんでいるような気がします。かすかに、だから不快ではなくて、わたしたちはそれをすなおに「語感」として感じ取ることが出来る。さらに、ことばの歩んできた歴史に触れることで、そのことばをとおしてわたしたちの体内のDNAの響きのようなものを感じることもできるかも知れません。
    文化との向き合い方というのは、そのようなあいまいで感覚的なものにいかに敏感になれるか?が肝要なのではないかな、と思っています。

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