「雨の降る日はあはれなり良寛坊」
「巷に雨が降るごとく、わが心にも涙降る」(ヴェルレーヌ、堀口大学訳)
近年、雨や雪の降り方、風の吹き方などが以前と少し様子が変わってきているということに気付いた人は多いと思う。これまでの四季の移り変わりに変化の兆しが表れて来たことは確かだ。長年俳句を作り続けているある近所の方が、最近春と秋がなく、冬と夏ばかりになってしまったように感ずると、嘆くように言っていた。大げさにも聞こえるが、おそらく俳人の実感なのだろう。
今年になって雨の降り方は確かに異常である。経験的にも言えることは、その異常さは雨の降る場所が局所的になってきていることだ。降るところと降らないところがはっきりと区別されるようになってきたように思う。夕立は「馬の背を分ける」と形容されることはあったが、今は夕立のようなな特殊な雨ではなく、全ての雨が局所的に降るようになってきたということである。つまり、雨の降る量やその降り方は、北部九州とか県単位では到底予測がつかなくなってきているのである。それどころか同じ町内でも降るところと降らないところの差異が顕著になりつつある。その現象に気がついたのか、このところ気象庁は予報の範囲を狭めたが、その程度で解決出来るような事態ではなくなってきている。先日、土佐高知のある場所で、一ヶ月に降る量の2.3倍の量の雨が一日で降ったという。やはり異常というより外にない。
この異常現象は日本だけではないようだ。中国では雨がふらず砂漠化しつつある地域が広がっているという。またヨ−ロッパでもテニスボールほどの大きさの、時にはサッカーーボールほどもある大きな(俄には信じがたいが、大げさな比喩か)雹が降り、多大な被害が出て、保険による損害賠償に関しての議論が高まったというし、あまりにも被害件数が多く、一年たっても雹による家屋損傷の修復が出来ずにいるところも少なくないという。
また、海水の温度が2度以上上昇しており、シベリアの凍土が解け始めたり、北極や南極の氷が溶け出していることはもうかなり以前から言われていることである。今年になっても南の海で捕れる本マグロが北海道で水揚げされたり、北海道の川に戻ってくる鮭の数が減ってきたり、草花の咲く時期が例年と変わってきたり、動植物の移動にも変化が多く見られるようになったという。この変化はこの2−3年でますます大きくなっている。しかし、最近の異常現象は、自然は転変万化するという一般論では語れない、人間の思考や技術がもたらした負荷なる現象と言わざるをえない面がはっきりとしてきた感じがする。「温暖化現象」などとのんきに言っていられない事態に突入しているのではあるまいか。
雨は古来日本では、詩歌や絵画の重要な題材だった。春夏秋冬に降る様々な雨に因んだ言葉は無数にある。百は下らないだろう。外国語の場合は雨の降り方は、名詞「雨」の前に形容詞をつけたり、降る様相を副詞で表現したりするが、日本語の場合、雨の名前自体が雨の属性や様態、またその降り方を含んだ名詞形で表現されている。春雨、梅雨、五月雨、村雨、時雨などが典型だが、辞書や歳時記を片手にしらべれば、雨に関して四百を超える呼び名があるという。日本人がいかに自然に対して細かい観察と思い入れの感情を持っていたかが分かる。特に雨に対する思い入れには強いものがあったようだ。自然現象としてだけではなく、生活の中にその思い入れの感情が日常的なものになっていたような気がする。私が子供の頃から聞いた言葉にも「雨垂れ石を穿つ」とか「雨降って地固まる」などがあったし、高校の頃下校するとき雨が降り出し「春雨だ、濡れて帰ろう」などと気取って言い合った記憶もある。また夏の夕方庭に縁台を出し蚊取り線香に火を点けて「夕涼み」などという風情もあった。夕立が去った後、寝るときは障子を開け蚊帳を吊って寝た。そのような自然との交感が文化の土台になっていたのだ。生活と直接関係した自然現象はやはり雨によるものが多かったような気がする。それに比例してか雨にまつわる童謡や唱歌は多くあった。
『雨』
雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒の木履(カッコ)の緒が切れた。
雨がふります 雨がふる
いやでもお家で 遊びましょう
千代紙折りましょ たたみましょう」(北原白秋 詞 弘田龍太郎 曲)
『雨降りお月さん』
雨降りお月さん雲の陰
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人でから傘さしてゆく
から傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン鈴つけた
お馬にゆられて、濡れてゆく(野口雨情 詞 中山晋平 曲)
当時の雨の唄と言えば「城ヶ島の雨」(北原白秋 詞 梁田貞 曲)もいい唄だと思う。「雨がふるふる城ヶ島の磯に、利休鼠の雨が降 る」そのころはまだ「利休鼠の雨」の意味がわからなかったが、後になってさすが白秋の言葉遣いだと感心したものだ。これらは古き良き大正時代の唄である。ここにはいつも雨が優しく降っている気配がある。子供も大人たちもどこか長閑だ。
戦争時代は「雨の歌」は少なかったように思う。雨を歌詞にするなどという心の余裕がなかったからに違いない。
昭和が終わり、平成の始め頃までは、雨にちなんだ「流行歌=はやりうた」が結構作られた。雨を歌うことがなぜか日本では、どこか 寂しげにに響く。外国にも雨を歌った歌があるのだろうか。調べたことがないから分からないが、おそらくあまり多くないような気がす
る。そう言えば一つだけ私の記憶に残っているものがある。私の記憶というより戦後の日本にこんな歌もあるかというように世間が、大人たちがアメリカの陽気さにかぶれた『雨に唄えば』というミュージカル映画があった。私は同時代的にこの映画を見たわけではないが、その馬鹿げた明るさは、いわゆる「進駐軍」なる人々が帰っていった国の風俗的な落し物だったのだろう。しかしその異国風の風俗に日本の大人たちはある「開放感」のようなものを感じていたことは確かだ。そこでは「雨」も陽気に降っていたのだ。
「もはや戦後ではない」などという言葉がある真実味を持ってきた頃、あるいはそういった意識を背景に、「雨に唄えば」的な陽気さは去っていき、「雨」に対する意識は変化したが、「雨」によせる湿っぽい感情は歌謡曲的に取り戻されてきたように思う。
学生運動が吹き荒れた世相においても、その背後で雨は静かに歌われていた。60年代のはじめ、それまでの歌手とどこか違っていてた西田佐知子が歌う『アカシアの雨の止むとき』(水木かおる 詞、藤原秀行 曲)はその世代の相反した二重な意識が反映されていたと言えるかもしれない。80年代になると、その意識の二重性は全く姿を消した。
『雨の慕情』
心が忘れたあのひとも 膝の重さが憶えてる
、、、、、
長い月日がめぐりめぐって 今は恋しい
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人つれて来い (阿久悠 詞 浜圭介 曲)
八代亜紀が唄う曲だが、「舟唄」とともに 70-80年代の風情がある。
『雨が空を捨てる日は』
雨が空を捨てる日は 忘れた昔が 戸を叩く
忘れられない やさしさで 車が着いたと 夢を告げる
空は風いろ 溜息模様
人待ち顔の 店じまい
雨が空を 見限って
あたしの心に のりかえる(中島みゆき 詞・曲)
この曲は中島の最初期の作品だ。でも言葉遣いはすでに完成し終わっている。中島みゆきの日本語感覚は才能だろう。
でもまだ「雨」の心的表象は「はやりうた」の痕跡の後を追っている。
その後の「雨・・・」という曲に「、、、冷たい雨、雨、雨、私を あの頃に連れて戻って」というくだりがある。ここでは、言葉の色合いは違っているが、阿久悠の「雨の慕情」の近くにいるようにさえ感ずる。
現今の雨の様相、「豪雨」「浸水」「地すべり」「洪水」などという言葉の連なりは流行歌(はやりうた)になるのだろうか。それでもまだ「雨の歌」は寂しげに響くのだろうか。おそらく、その時代の「雨」を歌った曲は出てくるだろう。しかしその時私たちは、良寛和尚の「雨の日はあはれなり」といった情感から遠く離れて、まさに「雨」が「人間」を捨てる日々を生きることになるような気がする。しかもそれは、そんなに遠い日のことではないかも知れない。それも「生々流転」の一場面に過ぎないと言うべきなのだろうか。世界は「無常」であると同時に「無情」なのだ。
私は昔から雨の日が好きだった。もちろん外出する必要がなく家でのんびりしている日のことである。外の雨は静かにしとしと降っているのがいい。障子の横の仕事場でぼんやりとしている。そんな雨の日は贅沢な時間を過ごしている日だとも言える。私は字が下手で、いつも母から、もっときちんと書きなさいと言われたものだ。習字も駄目で筆では字が書けない。情けないが今でも苦手である。ただ小さい時からなぜか硯で墨を摺るのはきらいではなかった。その頃も硯は中国産のものが尊ばれ、高価なものが多かったが、私たちが使っていたのは「雨畑硯」と呼ばれる甲州産もので、日蓮宗の総本山身延山久遠寺の奥の院「七面山」のさらにその向こう側にある「雨畑」というところで産する硯である。雨畑は、富士山の西側を流れる富士川の支流である早川のまだ奥の雨畑湖の先にある村落である。その雨畑は山口の赤間、宮城の雄勝、長崎の若田などと並んで、古来日本での有数な硯の産地だ。雨畑硯は同じ黒でも独特の色合いがあったように思う。私はいまでも雨畑硯を持っている。ほとんど使うことはないが、今でもそれに誇りのような愛着を持ち続けている。
「雨畑」集落は甲州と言っても、長野県の南アルプス南東の端、山梨県の南西の奥、その間にどうしてか静岡県が細長く割って入ったように北に伸びている、人里離れた三つの奇妙な地形に囲まれた過疎の地にある。そこに産する雨畑硯はそのような忘れ去られる場所的宿命を担った性格を宿しているのである。私はそのことを忘れることが出来ない。しかし、雨畑硯はその名前が亡くなることはないだろう。そういえば先日福岡の文房具屋で雨畑硯が売られているのを見かけたことがある。懐かしさと同時に「名あれば実あり、実あれば名あり」という言葉が反転し反復されて戻ってきたように思われた。
小学生の頃、私の前の席に雨宮という女の子がいた。雨宮姓は名家が多く、甲州にはよくある名前だが、その娘は成績も優秀だったし、とくに習字が上手だったことを記憶している。私が「雨」に愛着があるのは「雨畑」硯と「雨宮」という姓が、古い記憶の古層に沈んでいるからかも知れない。実の「雨」より名の「雨」が忘れられないからに違いない。「雨」について書くにあたりこの古い記憶をどうしても記しておきたかった。
雨が降る、古い記憶に雨が降る。

One Thought on “

  1. 緒方宏司 on 2014年9月5日 at 9:06 PM said:

    「雨の降る日は天気が悪い」
    ごく当然の意味合いとして使われている。
    最近の極集中豪雨を目のあたりにするとそうかもしれない。しかしこの現象はのべられているように「人間の思考や技術がもたらした負荷なる現象」のひとつと言わざるを得ない。人間の欲望が導き出したゆがんだ自然現象だろう。
    「きょうはいい天気ですね」いわゆる好天気なのです。
    「あいにくの雨ですね」いわゆる悪天候なのです。
    でもこれは真実なのだろうか?誰が「いい天気」「悪い天気」と決めつけたのだろう?自然に対して申し訳ないとおもわないだろうか?
    「恵みの雨」と申し訳程度に多少感謝の気持ちを表すことはあるが、大抵の場合否定的である。自然は「よかれ」と思って降らせているかもしれないのに。
    「小雨降るいい天気ですね」もありかも知れない。
    子供の頃の私は雨の降る日に縁側に頬杖をついて寝転び、雨の降り注ぐ庭木を本当にぼんやり、何も考えず眺めていたこともある。雨降る狭い庭にそれでもスズメが遊びに来ることもあった。後々思うとひとがいるのに厚かましいスズメだ。
    私の好きだった雨の景色は長雨が葉桜をたたいている新緑だった。
    雨はやはりどこか寂寥感があるほうが情趣に富んでいる。それでこそ「雨の降る日はあわれなり」なのでしょう。
    雨といえば昔読んだ本に「朝雲墓雨」という四字熟語的なにもなる話です。中国の
    王様が巫女と情を交わすという内容で、朝には雲となって暮れには雨となっておたずねしますと巫女が言ったという話です。こういう話は結構忘れないものです。
    「やらずの雨」という川中美幸の歌(山上路夫作詞)はすごく日本的な雨だと感心しています。「やらずの雨」がどの様な降り方をする雨をいうのかは決まっていないようだが、人間ドラマのロケーションあるいは小道具としての雨に感情移入させた言葉のようです。
    なお、金子みすずの童謡詩「お日さん、雨さん」はお日さまと雨を対等に平等にあつかっています。
    ほこりのついた しば草を 雨さんあらって くれました
    あらってくれた しば草を お日さんほして くれました
    こうしてわたしが ねころんで 空をみるのに よいように

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